西庄Ⅱ遺跡

 和歌山平野の北西部、和泉山脈のふもとに展開する遺跡で、西は平ノ下遺跡、東は木ノ本Ⅰ遺跡に接しています。昭和51年(1976)から昭和53年(1978)に発掘調査され、弥生時代~古墳時代の竪穴住居、鎌倉~室町時代の屋敷跡などがみつかっています。中世には東西に走る大溝と南北に走る大溝により区画された3つの敷地のなかに掘立柱建物、井戸、柵、溝、土坑などが展開しています。特に北西区の区画には、東西25m、南北15mの石組基壇と雨落ち溝をもつ掘立柱建物とそれに接するように井戸が存在していました。
 出土遺物には中国製青磁、白磁、染付のほか、土師器、瓦器、瓦質土器、備前焼、常滑焼、滑石製鍋、軽石製浮子、土錘、漆塗椀、滑石製品(温石)などがあります。

〔写真〕屋敷地の様子(区画溝、掘立柱建物、井戸)、石組井戸(中世)

沖ノ島北方海底遺跡

 沖ノ島北方海底遺跡は紀淡海峡に浮かぶ地ノ島・虎島・沖ノ島・神島の4島からなる友ヶ島のうちの沖ノ島の北側の海域を指します。この海域では古くから網漁業に伴って陶磁器類が引き上げられており、韓国全羅南道新安郡智島面防築里の沖合で1975年に発見された「新安沈船」と同様の交易船が沈没しているのではないかと考えられています。
 「海揚がり」の陶磁器とも称されるこれらの陶磁器類は中国龍泉窯で焼かれた青磁碗や香炉などの室町時代の日明貿易に伴うものと、九州の唐津や伊万里の港から大坂や和歌山城下町等の大消費地に運ばれた江戸時代の交易に伴う肥前系陶磁器に分けることができます。
 このことから、室町時代の日明貿易に伴う沈没船以外に少なくとも江戸時代の沈没船が存在すると考えられています。

〔写真〕青磁碗(鎬蓮弁文)、褐釉四耳壺、青磁香炉、青磁碗(雷文帯)

友ヶ島深蛇池湿地帯植物群落

 友ヶ島は、400種以上の植物が生育する植物の宝庫です。なかでも沖ノ島にある深蛇池は、淡水性の湿地植物群落が、特徴的な景観となっています。群叢の約70%は、海岸近くの水辺によく生育するカヤツリグサ科のヒトモトススキからなります。そのなかで、熱帯性のシダであるテツホシダと、寒地性のスゲで絶滅危惧種でもあるオオクグが同一の地に混生することはきわめて珍しいことで、重視されています。

常行寺の柏槙

 加太の常行寺の本堂の西側にたつビャクシン(イブキ)の老木は、樹齢推定400年で、幹周り4.7m、樹高13mもある大樹です。本幹が著しく左にねじれるという独特の姿をしています。かつては壮大な樹冠を形成していたようですが、たび重なる台風の被害を受け、近年では北半分の枝がほとんど枯死し、かろうじて南半分が緑葉を維持しています。

木ノ本の獅子舞

〔種別〕無形民俗

 木ノ本の獅子舞は、木ノ本にある木ノ本八幡宮の祭礼に奉納されるもので、500年の伝統があると伝わります。木ノ本地区は、古くは今から1300年前に奈良の大安寺により開拓され、その後東大寺の寺領となり、八幡宮が一帯の鎮守となったとされています。青年二人が雄獅子の胴衣に入って演ずる、勇壮活発な獅子舞です。特に地上5mに渡した2本の青竹の上を舞うダンジリ上の舞いが有名です。獅子が谷底に蹴落とした我が子の這い上がってくる姿を待ちながら、谷底をのぞく様子を演出しています。

〔写真〕ダンジリ上の舞い、木ノ本地区内での舞い

木本八幡宮本殿

 旧西庄村の産土神で、社伝では応神天皇が筑紫からの帰途、南海を通った際に泊まった紀水門の頓宮の跡に建てたとされます。社蔵の古文書には中世期の田畠寄進状があり、中世からの鎮守であったことがわかります。社殿の創立については明らかではありませんが、文明4年(1472)造営の神殿が天正13年(1585)兵火で焼失し、その後、元和4年(1618)に造立したのが現在の本殿で、蟇股や脇障子彫刻に元和5年(1619)の墨書があります。本殿は三間社流造、檜皮葺の建物で南面しています。全体として桃山時代の様式を踏襲し、彫刻や木鼻などの形も良く整っています。

茶臼山古墳

 茶臼山古墳は、東に隣接する車駕之古址古墳・釜山古墳とともに、釜山古墳群(木ノ本古墳群)を形成しています。土地開発により、墳丘はほとんど削られていますが、周辺に残る地割りや発掘調査から、5世紀中頃の前方後円墳(前方部が短い帆立貝式)である可能性が強まっています。後円部の直径は約36mで、墳丘の裾には葺石が確認されています。また前方部の外堤には円筒埴輪列が発見されました。

〔写真〕円筒埴輪、外堤の円筒埴輪列、後円部の葺石

釜山古墳

〔種別〕史跡

 釜山古墳は、和泉山脈の南麓に築造された古墳です。現状で直径40m、高さ7mを測る大型の円墳で、5世紀代の古墳です。 調査により墳丘の周りには幅11.7mの周濠がめぐり、その外側に堤が存在することが判明しています。堤の内側には砂岩の割石を積み上げた葺石が確認されています。主体部は不明ですが明治時代に実施された発掘調査では鉄製の武器・武具類(直刀、鉄鏃、鉄槍、挂甲小札)、ガラス製小玉、滑石製小玉などが出土していますが、現在それらの出土遺物の所在は不明です。

〔写真〕古墳遠景、外堤葺石

釜山古墳

 釜山古墳は、和泉山脈の南麓に築造された古墳です。現状で直径40m、高さ7mを測る大型の円墳で、5世紀代の古墳です。発掘 調査により墳丘の周りには幅11.7mの周濠がめぐり、その外側に堤が存在することが判明しています。堤の内側には砂岩の割石を積み上げた葺石が確認されています。主体部は不明ですが明治時代に実施された発掘調査では鉄製武具類(直刀、鉄鏃、鉄槍、挂甲小札)、ガラス製小玉、滑石製小玉などが出土していますが、現在それらの出土遺物の所在は不明です。

〔写真〕古墳遠景、外堤の葺石

大谷川遺跡

 加太の集落の北方、大谷川の河口近くに位置する河岸段丘上に形成された海浜遺跡で、縄文時代から古墳時代を中心とする各時期の遺物が発見されています。東西約180m、南北約120mの規模で標高は5~8mです。
 昭和42年(1967)に確認調査が実施され、弥生時代後期~古墳時代中期を主体とする遺物包含層が確認されました。縄文時代後期から人の営みが認められますが、古墳時代初頭頃から塩作りを営んだ漁業集落が展開したものと推定されます。
 他には、弥生時代後期末~古墳時代初頭頃とみられる銅鏃5点と所属時期不明の銅製釣針が採集されています。

〔写真〕製塩土器、土錘、銅鏃