園部円山古墳

〔種別〕史跡

 園部円山古墳は、鳴滝川の東岸、和泉山脈から南へ派生する尾根の先端に位置する全長9.55mの両袖式横穴式石室を持つ復元径25mの円墳で、6世紀中頃に築かれたとみられます。紀ノ川下流域の古墳の多くが扁平な緑色片岩を用いた石室であるのに対して、園部円山古墳の石室は砂岩の巨石を用いていることに大きな特長があります。またその一方で、玄門部にやや幅の狭い空間を作り出していることや玄門部の上部に緑色片岩の板材を梁のように架けることなど、石室の構造は岩橋千塚古墳群の横穴式石室を意識していることが伺えます。
 中世に石室が再利用されたため、石室内から出土した副葬品の残りは悪いですが、金銅装の圭頭太刀や刀装具、馬具、耳環等が出土しており、本来は豪華な副葬品を伴っていたと考えられます。

〔写真〕玄室部、羨道部、圭頭太刀柄頭、馬具(杏葉)

山口廃寺跡

 山口廃寺跡は大坂街道(雄山越)と淡路街道との交点付近の紀ノ川右岸に位置します。山口廃寺の蛇紋岩製の大礎石(最大長2.42m、幅・高さ1.2m余)はすでに破壊されていますが、大塔の心柱を受けた痕跡(直径18cm、深さ21.5cm)があります。
 この他には礎石などの遺構は確認されていませんが、周辺からは中房に七個の蓮子を配し、周縁部には鋸歯文を巡らした八葉副弁蓮華文軒丸瓦をはじめとする奈良時代前期の瓦が出土しているだけでなく、「堂垣内」「門口」など寺院に関係する地名が残っていることから古代には規模の大きな寺院が建っていたものと思われます。

〔写真〕大塔跡、軒丸瓦

紀の川銅鐸出土地

 昭和35年(1960)11月に、紀ノ川に架かる田井の瀬橋下流約400mの中州の一角で、川底の砂利を採取していた船によって、銅鐸の破片が引き上げられました。砂利をすくい上げるバケットにより強い力が加わったために、銅鐸は約40点の破片になっていますが、元は1m以上もの大型の銅鐸であったことがわかります。身には突出する線によって文様がつけられている突線鈕式と呼ばれる型式で、弥生時代の後期頃の制作と考えられます。材質分析の結果、銅約90%のほかに錫と鉛が微量成分として含まれた、銅の比率が極めて高いことが判明しています。

上野廃寺跡

 上野廃寺は、紀ノ川流域の古代寺院跡のなかでも代表的な寺院跡の一つとして、昭和26年(1951)に国の史跡に指定されました。昭和42年(1967)と昭和59年(1984)に行われた発掘調査の結果、寺院の創建は7世紀後半で、10世紀後半まで存続した薬師寺式の伽藍配置をもつ寺院であったことがわかりました。
 出土した蓮華文軒丸瓦や唐草文軒平瓦は、奈良県の法隆寺西院伽藍で用いられた瓦の影響を強く受けた秀麗な文様です。また、忍冬文をレリーフした隅木蓋瓦(建物の隅木の端を覆う瓦)は、他に類例がない特徴的なものです。

〔写真〕西塔跡、講堂跡、軒瓦、隅木蓋瓦

丹生神社の樟樹

 直川の丹生神社の境内にあるクスノキは、江戸時代に編纂された『紀伊続風土記』にも「楠の大樹周り三丈三尺なり」と記されています。丹生神社は、社伝によるともと直川丹生に坐していたものを、嘉吉2年(1442)に現在の場所に遷したということです。このクスノキがその頃に植えられたものとすれば、樹齢は500年以上ということになります。樹高約25m、幹周りは約9mで、樹冠は約25mに広がりますが、過去の台風の影響でやや縮小しています。

力侍神社本殿、摂社八王子神社本殿

 天手力男命を主神とする神社で南面して建てられています。当社の創建は明らかではありませんが、社伝によるともと八王子社と称して、八王子権現・力侍大明神を祀っていたとされます。力侍神社はもと和歌山市内の神波にあったものを上野の八王子社境内に移したが、寛永3年(1626)に両社とも現在地に移されたといわれます。
 本殿・摂社ともほぼ同じ規模の一間社流造、こけら葺で、棟札により力侍神社は寛永11年(1634)、八王子神社は寛永元年(1624)に建てられたことがわかっています。縁や棟飾りなどに後補の部分もありますが、全体として当初の姿が保たれていて、三船神社(紀の川市)や上岩出神社(岩出市)などの安土桃山時代の神社建築に続く時期の重要な作例となっています。

〔写真〕力侍神社本殿・摂社八王子神社本殿

川辺王子跡

〔種別〕史跡

 川辺王子は熊野三山における御子神信仰の王子を勧請した熊野九十九王子の一つです。この熊野詣の沿道に設けられた王子社は、御師・先達制度とともに熊野信仰の特色のひとつとなっています。古代の熊野詣の道には紀路、伊勢路、大峯路がありましたが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて行われた法皇や上皇による熊野御幸ではいずれも紀路が用いられており、御幸道として整備されたことによりこれらの王子社も発達したと考えられます。王子社は通例約2kmごとに設けられ、遥拝所兼休憩所として御経供養や御歌会なども催されました。川辺王子は雄ノ山越えにより和歌山県に入って中山王子、山口王子に続く3つ目の王子社にあたります。なお、『紀伊続風土記』には現在の力侍神社が川辺王子であろうと記載されていることから、史跡としては力侍神社境内を指定していますが、他の文献から和歌山市上野にある小祠の八王子を川辺王子跡とする説もあります。

高井遺跡

 高井遺跡は直川に位置し、東と西を谷にはさまれた段丘上に立地します。直川小学校内の発掘調査では、古墳時代前期と平安~鎌倉時代の集落跡が発見されました。平安~鎌倉時代では、多数の掘立柱建物があり、土師器、須恵器、黒色土器のほかに緑釉・灰釉陶器、中国製白磁が出土し、土葬墓から北宋銭15枚以上が出土しました。高井遺跡の周辺に古代の南海道が想定されており、それに関係する集落の可能性があります。

〔写真〕掘立柱建物、銭貨出土状況、銭貨

山口御殿跡

 和歌山市の北東部、市立山口小学校・幼稚園敷地内に位置します。中世末期頃に当地域の有力者であった易井喜内氏の旧宅跡に、紀州入りした徳川氏が山口御殿と呼ばれる別邸を建築したとされます。
 江戸時代後期に記された『紀伊国名所図会』などによると、遠侍(武士の詰め所)や書院などの建物のほか、御供部屋・御台所などがあり、周囲には堀が築かれ、江戸時代の参勤交代の際に、歴代藩主や幕府の使者の休憩所として利用されたとみられます。学校敷地内の発掘調査では、山口御殿に関係するとみられる堀の一部や井戸、礎石、埋桶、土塀などが見つかっています。
 山口御殿は、明治2年(1869)の廃藩置県によって、建物は順次、取り壊されましたが、明治6年(1873)に山口小学校が開校した際に、遠侍1棟が校舎として使われました。現在、山口御殿に由来するとみられる石橋や鬼瓦が山口小学校に残されています。

〔写真〕土塀の基礎(2条の石列部分)、鬼瓦、石橋

橘谷遺跡

 紀ノ川北岸の標高98m、平野部との比高差60mの丘陵南側斜面を中心に展開する弥生時代中期後葉から後期前葉の遺跡です。発掘調査により弥生時代後期前葉には、4条の平行する空堀が尾根を切断する形で存在し、同時期の竪穴建物も5棟確認されています。空堀からは投弾・投石の可能性のある自然石が出土しており、武器として使用されていた可能性が指摘されています。また、おなじ丘陵上からは銅鐸が出土するなど和歌山県を代表する高地性集落として著名です。

〔写真〕空堀、銅鐸、竪穴住居、投弾・投石