山口遺跡

 山口遺跡は、古代の寺院跡である山口廃寺の南で、近世の山口御殿跡の北西に位置します。また南方には東西方向に古代の南海道が想定され、遺跡内に熊野古道がとおる交通の要衝でもあります。県道建設にともなう平成5年(1993)からの発掘調査では、おもに古墳時代初頭、飛鳥時代、中世の集落跡が発見されました。特に飛鳥時代では、山口廃寺の造営直前の時期の掘立柱建物群が発見され、寺院の造成にともなって廃絶し、寺院の近くに移動した可能性があります。

〔写真〕平成5年(1993)調査全景、堀立柱建物

田屋遺跡

 紀ノ川北岸の平野部に形成された弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡です。遺跡の南部を東西に貫く一般国道24号バイパス線建設や宅地開発の際に調査が行われ、90棟を超える竪穴建物や掘立柱建物が発見され大規模な集落遺跡であることが判明しています。古墳時代中期の竪穴建物には壁際に、造り付けのカマドが設けられていますが、特に、煙道がオンドル状に長くのびる例があり、朝鮮半島との関係性がうかがわれ、調査当時は全国的に注目されました。

〔写真〕カマド、竪穴建物、須恵器(高杯)

六十谷古墳群

 和泉山脈から派生する尾根の標高96~105mの位置に築かれた2基の古墳からなります。
 1号墳は墳丘の封土が遺存せず、円筒埴輪片が微量出土するのみでありました。岩盤整形された形からみて、本来直径10mほどの円墳であったと推定されます。
 2号墳は、くびれ部の葺石、埴輪列が遺存し、前方後円墳であったことが判明しました。全長約27m、後円部径約17mで、円筒埴輪、形象埴輪(家、盾、衣笠)が出土しており、5世紀初頭頃の築造とみられます。

〔写真〕2号墳東くびれ部(葺石と埴輪列)、2号墳西くびれ部(葺石、埴輪列)、2号墳西埴輪列、1号墳

六十谷遺跡

 六十谷遺跡は、標高15.0m前後の段丘上に営まれた縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡です。遺跡内部には、北半部に推定古代南海道が東西に横断し、遺跡の南限には淡路街道(淡島街道)があります。
 六十谷遺跡では、千手川の堤防から縄文時代晩期の土器や石棒の頭部がみつかっており、遺跡の西側に鎮座する射矢止神社の周辺では、弥生時代前期から後期までの弥生土器のほか、サヌカイト製の石鏃をはじめとする石器が表採されています。
 遺跡の中央部南端で行われた発掘調査では、古墳時代前期から中期の溝やピット、平安時代から鎌倉時代の屋敷地を区画する溝などがみつかっており、平安時代の溝からは緑釉陶器の碗や中国製の白磁の碗が出土しています。紀ノ川北岸の段丘上には、推定古代南海道を通して中央との交流をもった集落が多数営まれたと考えられ、六十谷遺跡もそのうちのひとつとみられます。

〔写真〕屋敷地の区画溝

上野廃寺跡

〔種別〕史跡

 上野廃寺は南に紀の川をのぞみ、北に三十六人山を背負う紀ノ川右岸の台地に立地します。昭和42年(1967)と59年(1984)に行われた発掘調査の結果、東西両塔をもつ薬師寺式の伽藍配置の寺院であったことが解っています。
 この上野廃寺跡からは奈良時代前期を中心とした瓦が出土していますが、特筆すべきものとして、金銅製風鐸や堂塔の隅木の先端を覆う箱形の瓦製品である隅木蓋瓦が出土しています。隅木蓋瓦の飾板には扇形のパルメット文(忍冬文)に輪形を巡らしたものを主文とし、その周縁には左右対称にS字形の文様を配置しています。

〔写真〕隅木蓋瓦、西塔、軒瓦、講堂

山口廃寺跡

 〔種別〕史跡

 山口廃寺跡は大阪街道(雄山越)と淡路街道との交点付近の紀ノ川右岸に位置します。山口廃寺の蛇紋岩製の大礎石(最大長2.42m、幅・高さ1.2m余)はすでに破壊されていますが、大塔の心柱を受けた痕跡(直径18cm、深さ21.5cm)があります。
 この他には礎石などの遺構は確認されていませんが、周辺からは中房に七個の蓮子を配し、周縁部には鋸歯文を巡らした八葉副弁蓮華文軒丸瓦をはじめとする奈良時代前期の瓦が出土しているだけでなく、「堂垣内」、「門口」など寺院に関係する地名が残っていることから古代には規模の大きな寺院が建っていたものと思われます。

〔写真〕大塔跡、軒丸瓦

府中Ⅳ遺跡

 紀ノ川下流域の北岸の標高24~26mの段丘上に立地する集落遺跡です。数次にわたる調査で、弥生時代~鎌倉時代の建物遺構、溝、土坑などが確認されています。時期の判明するものとしては弥生時代後期の円形竪穴建物7棟、古墳時代前期の方形プランの竪穴建物17棟、奈良時代の掘立柱建物2棟、鎌倉時代の掘立柱建物2棟などがあります。特に、弥生時代終末~古墳時代初頭頃に集落としてのまとまりがあり、竪穴建物のなかには炉周辺の土を盛りあげた炉堤やベッド状遺構をもつものや一辺が8.6mもある大型の方形プランのものも含まれています。
 出土遺物には、弥生土器、土師器、砂岩製砥石、叩石、古墳時代前期の刀子とみられる鉄器片、奈良時代の厚さ7cmの塼、製塩土器などがあります。

〔写真〕竪穴建物群(古墳時代前期)、全景

西田井遺跡

 紀ノ川の河口から約10km上流の北岸に位置する、弥生時代後期から江戸時代にかけての集落遺跡です。発掘調査の結果、各時代の層から竪穴建物・掘立柱建物・溝・井戸・土坑・墓といった多様な遺構が検出され、古墳時代中期の竪穴住居では造り付け竈や貯蔵穴を持ち、須恵器や土師器のほか丸底の製塩土器や韓式土器なども出土しています。

〔写真〕全景(西から)、溝(土器出土状況)、竪穴建物、堀立柱建物

園部円山古墳

 園部円山古墳は、鳴滝川の東岸、和泉山脈から南へ派生する尾根の先端に位置する全長9.55mの両袖式横穴式石室をもつ復元直径25mの円墳で、6世紀中頃に築かれたとみられます。天王塚古墳(岩橋千塚古墳群)をはじめとして紀ノ川下流域の古墳の多くが扁平な緑色片岩を用いた石室であるのに対して、園部円山古墳の石室は砂岩の巨石を用いていることに大きな特長があります。一方で、玄門部にやや幅の狭い空間を作り出していることや玄門部の上部に緑色片岩の板材を梁のように架けること、玄室内から羨道を通って石室外に抜ける排水溝をもつことなど、石室の構造は岩橋千塚古墳群の横穴式石室を意識していることが伺えます。
 中世に石室が再利用されたため、石室内から出土した副葬品の残りは悪いですが、金銅装圭頭太刀の柄頭や刀装具、馬具、耳環等が出土しており、本来は豪華な副葬品を伴っていたと考えられます。昭和60年(1985)に和歌山市指定文化財(史跡)になっています

〔写真〕玄室部、羨道部、圭頭太刀柄頭、馬具(杏葉)

奥出古墳

 奥出古墳は、鳴滝古墳群から北北東の和泉山地から派生した尾根に立地する径25.0mの円墳です。封土の流出が著しく、石室の天井石がすでに露出しています。埋葬施設は南南東に開口する横穴式石室で、石室の規模は玄室部分の長さが3.25m、幅1.77m、高さ約2.3m、羨道部分の長さ2.93m、幅0.9mです。石室の壁には和泉砂岩の巨石を用い、玄室の下方よりも上方に大型の石が使われています。
 園部円山古墳(和歌山市指定文化財)とともに和泉砂岩の巨石を用いた横穴式石室として注目されます。現在、石室は埋め戻されています。

〔写真〕横穴式石室奥壁、玄門、羨道