和歌山県庁舎本館

 昭和13年(1938)につくられた鉄筋コンクリート造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)の四階建の建物です。淡黄色のタイル貼の外壁に二連アーチ窓を並べ、頂部や正面をテラコッタの装飾で飾っています。外観のほか、正面階段室や四階正庁の内部意匠も竣工当初の姿をよく残しています。建設当初はE字型平面でした。県都を象徴する近代建築です。

旧西本組本社ビル

 慶応年間から続いた土木建設業の西本組(三井建設の前身)本社事務所として建設され代々引き継がれています。鉄筋コンクリート造りの三階建で、ルネサンス様式の玄関廻りの意匠が特徴です。近年、築造年が大正14年(1925)以前と判明しました。県内における近代建築活用の先駆例です。

李梅渓の墓

〔種別〕史跡

 李梅渓は元和3年(1617)に李真栄の子として紀州に生まれます。寛永11年(1634)には家督を相続し、30石の儒者となります。藩儒学者永田善斎の弟子となり、京都にも遊学し、後に切米80石に加増されています。寛文12年(1672)「徳川創業記考異」を30年かかって完成させ幕府に献上するとその功績により知行300石に加増されます。のちに、葛城山麓の梅原村(現和歌山市)を与えられ、梅渓と号したとされています。
 また、李梅渓は頼宣に命じられ「父母状」を作成しています。父母状は親孝行の大切さや、法律を守ること、正直を第一として家業に専念することなどが書かれており、領内に配布されました。父母状の碑は、海善寺のほかに岡公園にも建てられています。
 李梅渓は天和2年(1682)10月22日に亡くなり、父真栄の墓のある海善寺に葬られました。

西岸寺の板碑

〔種別〕史跡

 板碑は西岸寺の墓地のほぼ中央にあります。この板碑は大坂夏の陣(1615年)で戦死した安藤彦四郎重能(享年29)の供養のため弟の安藤彦兵衛が建立したものです。建立年代は銘文にはないものの建立者名などから考えて寛永年間はじめ(1620年代)と考えられます。
 安藤彦四郎は紀州徳川家家老である田辺藩主安藤帯刀の嫡子でしたが、大坂夏の陣で戦死し、はじめ大阪の長福寺(大阪市平野区)に葬られますが、のちに三河国へ改葬されました。西岸寺の寺伝によると、この板碑はもと大阪の一心寺(大阪市天王寺区)にあったもので、安藤彦四郎の孫である第4代田辺藩主安藤直清により和歌山に移転されたと考えられます。

和歌山城

〔種別〕史跡

 天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州攻めを行い、帰陣直後に紀州支配の中心として、吹上峰を城地と定め、弟秀長に支配をまかせました。その後、秀長の城代として桑山茂晴が在城し、慶長5年(1600)に浅野幸長が関ヶ原の戦功により紀伊国城主となり、本格的に和歌山城の増改築に着手しています。元和5年(1619)徳川家康の第10子頼宣が55万5千石を占有して入国し、御三家の1つとなりました。
 弘化3(1846)年7月26日、天守閣落雷のため大小両天守・櫓・蔵・多門等を焼失し、嘉永3年(1850)に再建されましたが、昭和20年(1945)7月、空襲によって再び焼失しました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に嘉永3年再建時の外観で復元したものです。

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