大同寺墳墓

 大同寺墳墓は、紀ノ川の河口に近い北岸にある南叡山大同寺の北側にある標高約50mの丘陵上にあります。石櫃と銅製蔵骨器は天保年間(1830~43)の山崩れの際に出土したものであるため、正確な出土地点は不明ですが、銅製蔵骨器の形式から奈良時代に作られた火葬墓であると考えられます。
 和泉砂岩製の石櫃は身と蓋からなり、高45.5cm、長辺91.0cm、短辺72.7cmで、中央に口径31.8cm、深さ12.1cmの円形の穴が穿たれています。銅製蔵骨器は蓋を含めた総高19.7cm、口径29.0cmで、重圏座に宝珠型のつまみを持つ蓋と低い脚部を持つ盤状の坏身からなります。蓋の裏面中央と身の底部外面中央にはともに「生」という1字が刻まれています。

〔写真〕蔵骨器

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

鳴神Ⅱ遺跡

 鳴神Ⅱ遺跡は、岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地に接する紀ノ川南岸の沖積地に広がる東西約0.3km、南北約0.4kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代末~平安時代にかけての溝や奈良時代の井戸などが検出されています。特に、溝は弥生時代末に開削され、古墳時代中期に整備し、以後奈良時代~平安時代まで使用されたことが出土遺物から伺うことができ、今日の宮井用水同様に用水路として機能していたものと考えられます。なお、溝からは建築部材と考えられる屋根型の木製品や扉、斧柄や砧、杵、腰掛状木製品などが出土しています。

〔写真〕井戸(奈良時代)、腰掛状木製品、屋根形木製品

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋

大同寺の銅製蔵骨器 附石櫃

〔種別〕工芸

 大同寺墳墓は、紀ノ川の河口に近い北岸にある南叡山大同寺の北側にある標高約50mの丘陵上に位置します。石櫃と銅製蔵骨器は天保年間(1830~43)の山崩れの際に出土したものであるため、正確な出土地点は不明ですが、銅製蔵骨器の形式から奈良時代に作られた火葬墓であると考えられます。
 銅製蔵骨器(総高19.7cm、口径29.0cm)は重圏座に宝珠型のつまみを持つ蓋と低い脚部を持つ盤状の坏身からなります。蓋の裏面中央と身の底部外面中央にはともに「生」という1字が刻されています。なお、付属の和泉砂岩製の石櫃は身と蓋からなり、中央に円形の穴が穿たれています。

〔写真〕銅製蔵骨器、蓋裏銘、石櫃

和同開珎・万年通宝

 発掘調査によって太田・黒田遺跡から出土した奈良時代の銭貨の一括資料(直径2.36~2.55cm)です。皇朝十二銭である和同開珎が42枚、万年通宝が4枚の合計46枚からなります。中に刳りぬきの井筒を納めた直径2.0m、深さ2.9mの井戸の底から出土したことから、これらの銭貨は井戸に埋納されたものであったと考えらます。
 なお、本資料は発掘調査で出土した一括資料としては和歌山県内では最多例であり、全国的にも比較的多いものです。

〔写真〕和同開珎

朝日蔵骨器出土地

 紀ノ川の南岸、朝日の浄土寺境内の西側墓地周辺に埋納された蔵骨器です。蔵骨器には外容器が伴っており、直径0.8m、深さ0.4mの墓坑に倒置した状態で設置し、そのあと墓坑内を木炭で充墳している状況が確認されています。
 蔵骨器の時期は土器の特徴から8世紀末から9世紀初頭のものとみられます。蔵骨器は須恵器長頸壺の口縁部から頸部を打ち砕いたものを使用しており、和歌山県内でも類例をみないものであり注目されます。

〔写真〕蔵骨器

友田町遺跡

 紀ノ川の南岸で和歌山駅の西側に広がる遺跡です。標高2.8m前後の沖積低地に古墳時代の集落が営まれています。発掘調査により古墳時代前期の竪穴建物が1棟、古墳時代後期の掘立柱建物が5棟確認されています。掘立柱建物のなかには布堀の掘方をもつものも含まれています。また、古墳時代後期の溝からは、滑石製勾玉と剣形模造品、結晶片岩製の有孔円板など、祭祀関係遺物が出土しており注目されます。

〔写真〕掘立柱建物、滑石製品など

岩橋遺跡

 紀ノ川の南岸で岩橋千塚古墳群の北側に位置する遺跡です。標高7m前後の沖積低地に古墳時代初頭から中世にかけての集落が営まれています。発掘調査により古墳時代初頭の竪穴建物、奈良時代から平安時代の木組井戸、中世の井戸など各時期の遺構が確認されています。ただし、これらの遺構は各時期とも密集して確認されないため、それほど大きな集落ではなかったと考えられます。

〔写真〕竪穴建物、井戸(平安時代)

太田・黒田遺跡

 紀ノ川の南岸の和歌山駅の東側に広がる遺跡で、標高3~4mの沖積地に弥生時代から江戸時代までの集落が営まれています。特に弥生時代には前期に水田遺構や竪穴住居を伴う集落が形成され、中期後半には集落域が拡大し、和歌山平野のなかで拠点的な集落として機能します。集落内で石舌を内蔵する銅鐸(和歌山県指定文化財)が出土した遺跡としても著名です。
 また、奈良時代には刳り抜きの井戸から和同開珎42枚・万年通宝4枚(和歌山市指定文化財)が出土しました。銭貨の出土例としては全国的にも多い事例です。
 室町時代の太田・黒田遺跡の南半部は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めの際に、水攻めが行われたとされる太田城跡と推定されています。これまでの調査で太田城に関連するとみられる大規模な堀状の遺構が確認されています。

〔写真〕竪穴建物(弥生時代)、銅鐸、弥生土器、井戸(飛鳥時代)