天守閣が建つ西峯の天守郭と本丸御殿が建つ東峯をあわせた岡山(虎伏山)山頂一帯を徳川期には本丸と呼んでいます。
御殿はもともと殿様が日常生活を営む場でしたが、江戸初期以降は謡初や謁見等の限られた場でしか利用されなくなりました。
天守閣
大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守です。浅野期には黒板張りでしたが、寛政10年(1798)に白壁となります。弘化3年(1846)の落雷で焼失し、嘉永3年(1850)にほぼ元のとおり再建されます。この天守閣は昭和10年(1935)に国宝に指定されますが、昭和20年(1945)7月9日の和歌山大空襲で焼失しました。現在の天守閣は、昭和33年(1958)に復元されたものです。
天守閣を中心とした虎伏山西峰一帯は、浅野期には「本丸」とされていましたが、徳川期には「天守郭」と呼ばれるようになりました。
本丸御殿跡
虎伏山東峰の郭は浅野期には「二の丸」と呼ばれ、城主が日常生活を送る御殿がありました。徳川期には山上部一帯が「本丸」となり、ここにあった本丸御殿は不便で手狭なのでほとんど使われなくなります。ただし、幕末に参勤交代が中止となり、江戸藩邸にいた藩主の正室(御簾中)たちの帰国が許されると、本丸御殿を一時使用しています。
明治時代、廃藩により本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築されています。
七福の庭
この庭は、もともと本丸御殿の中庭でしたが、大正12年(1923)に給水場の建設に伴い移設されました。城づくりの名人として有名な加藤清正が、娘婿の徳川頼宣のためにつくらせた庭といわれています。しかし、清正は頼宣が紀州に入った時点で死んでおり、また庭づくりに詳しいともいえず、この説には疑問があります。
下の写真のように、宝船に乗った七福神を、結晶片岩の巨石を用いて表現した庭となっています。
伏虎像
和歌山城の建つ「虎伏山」の名にちなんでつくられたと思われます。和歌山市出身の作家である有吉佐和子の作品『紀ノ川』にも登場します。昭和17年(1942)に戦時下の金属回収のために供出されますが、昭和34年(1959)に再び設置され、現在に至ります。
刻印がみられる石垣
新裏坂下の石垣は、和泉砂岩の石材を打ち込みハギの技法で積んでいます。ここでは、刻印と呼ばれるマークを刻んだ石材が多くみられます。
和歌山城では、刻印のある石垣はおおむね浅野期に築かれたものと理解されています。刻印は切石や石積みの担当者を区別するためのマークと一般的には考えられていますが、和歌山城の刻印が何を意味するかははっきりわかっていません。