原始の和歌山
紀伊半島中央部の大台ケ原から流れ出した紀ノ川は、西方へ向かって130キロメートル以上も流れて紀伊水道へ注いでいます。和歌山市はこの紀ノ川の河口に位置します。
市内で最も古い考古資料は、およそ1万5000年前から2万5000年前の旧石器時代のナイフ型石器です。周辺の山間部で発見され、その頃から人々の生活が始まっていたことがわかります。縄文時代の前期~後期頃(約7000年前~約3000年前)は、丘陵の裾部が生活の場となっていたようで、禰宜、鳴神、吉礼、岡崎などで食べた貝殻や動物骨を捨てた貝塚が作られ、縄文土器や石器、骨角器も出土しています。2300年ほど前から始まる弥生時代には、人々は積極的に平地を開拓し、水路を引いて、水田を作り、住居を築いて、本格的な村作りを行いました。弥生土器だけでなく、金属器(銅鐸、鏡)や木器も出土する平野中央部の太田・黒田遺跡は和歌山県を代表する集落遺跡です。
4世紀から6世紀の古墳時代には、有力な豪族により古墳が多数築かれました。紀ノ川北岸には、馬冑を出土した大谷古墳や金製勾玉を出土した車駕之古址古墳など渡来系の出土品をもつ5世紀代の有力古墳が築かれ、河川や海を介して遠方の地域と密接なつながりをもっていた勢力の存在をうかがい知ることができます。紀ノ川南岸の岩橋丘陵には、総数が700基にも及び、全国的にみても屈指の規模を誇る岩橋千塚古墳群が形成され、特色のある横穴式石室が多く築かれています。
古代の和歌山
古代の和歌山は、『日本書紀』や『古事記』に記された神話に登場します。天窟戸に隠れた天照大神を導き出すために鏡が作られました。その鏡を祀っているのが日前宮です。一説には伊勢神宮だともいわれていますが、古代の人々は日前宮と伊勢神宮を同じように見ていたことがわかります。日前宮をはじめとして、伊太祁曽神社・鳴神社などは古代の朝廷から特別な崇拝を受けていました。
本来紀伊国は、「木国」と表記されていました。それは、古代国家に材木を供給する地域だったからだといわれています。紀伊国が供給したのは、材木だけではなかったのです。天皇が即位した後の最初の新嘗祭(にいなめさい)を、即位を記念して大嘗祭(だいじょうさい)といいますが、その際に加太の海女が採った鰒が献上されました。古代の都である平城京や平安京には海がありませんでした。都に最も近い海を持つ紀伊国は、海産物の供給地だったのです。そして、海を見るために、天皇たちは多くの貴族を引き連れて、和歌浦を訪れました。
中世の和歌山
朝廷権力の力が弱まってくると、寺社や貴族などの勢力が強まり、多くの荘園が形成されてきます。現在の和歌山市域でも賀太荘や雑賀荘、和佐荘などの荘園がありました。その反面、有力な武士が成長しなかったのも事実です。在地の土豪や日前宮、根来寺、高野山などの勢力が強くなり、これらを統合できる大名が育たなかったのです。
混乱の時代に人々は新しい宗教に救いを求めました。紀州では浄土宗や浄土真宗の高僧の来訪が相次ぎ、その教えは人々の間に浸透していきました。
戦国末期になると、紀ノ川下流域の土豪や有力農民らが「雑賀一揆」として地縁的な組織を形成します。その一方で経済基盤や宗教基盤は異なる構造を持っていました。「石山合戦」では、多数の鉄砲を持ち織田信長を苦しめましたが、その後、紀州を攻撃した羽柴秀吉に敗れました。これにより紀州の中世は終わりを告げ、新たな時代に入っていきます。
近世の和歌山
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦の功により浅野幸長が入国します。浅野は、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命により築城された和歌山城の修築・拡張を行うとともに城の大手を東から北に変更し、本町を大手通りとする城下町の都市計画を実施しました。
元和5年(1619)、浅野に代わり徳川家康の第十男・頼宣が55万5000石を領して入国します。紀州藩初代藩主・頼宣は、御三家のひとつにふさわしい居城とするため、城と城下町の整備・拡張を行っていきます。頼宣を祖とする紀州徳川家から五代藩主・吉宗、十三代藩主・慶福(家茂)がそれぞれ八代、十四代将軍となっていきます。
城下町和歌山は、江戸後期には全国第8番目の近世都市にまで発展します。とくに文化面では、紀州徳川家と表千家とのつながりが深く、茶道文化が花開き、学芸では国学の本居宣長や大平などが活躍し、文人画では祇園南海、野呂介石など日本絵画史に光彩を放つ人物が、また日本医学を発展させた華岡青洲が輩出されました。城下町周辺には万葉の地で有名な和歌浦、西国三十三所観音巡礼二番札所の紀三井寺、加太の淡嶋神社など、名所や霊場があり諸国から多くの旅人が訪れました。