雑賀崎台場跡

 雑賀崎の北端部、紀伊水道に突出した通称「トンガの鼻」と呼ばれる岬の先端部に築かれた台場跡です。調査により台場の周囲には土塁がめぐり、土塁の下には石垣が構築されている状況が判明しました。土塁に囲まれた中央部には、逆V字状の石積み遺構が確認されています。 この石積み遺構に関しては、現在のところ類例がなく、詳細は不明ですが、砲台に関連するなんらかの施設であるものと考えられます。台場の築造時期は、構築の際の整地土から出土した遺物より、18世紀後半から19世紀前半と考えられます。

〔写真〕逆V字状の石積み遺構

鷹の巣

 雑賀崎の西南で、海に突き出た岬の断崖絶壁が「鷹の巣」とよばれています。絶壁の高さ50mで、紀州の青石とよばれる結晶片岩が海岸に露出し、豪壮な景観を形成しています。鷹がこのような絶壁の岩穴に巣をつくることから名付けられました。鷹の巣の下に「上人の窟」とよばれる洞窟があり、天正8年(1580)、織田信長との石山合戦に敗れ、大阪の石山本願寺から紀州の鷺ノ森に逃れた教如上人が、和歌浦から舟で逃れ、この洞窟にひそんで難をまぬがれたと伝わります。

雑賀崎台場

〔種別〕史跡

 江戸時代末期、外国船の来航に対処するために、紀州藩により沿岸部に築かれた土塁・石垣・砲台などの海防施設が台場です。雑賀崎台場は、紀伊水道に突出した通称「トンガの鼻」と呼ばれる岬の先端部に築かれた台場跡で、調査により周囲には土塁がめぐり、土塁の下には石垣が構築されている状況が判明しました。土塁に囲まれた中央部には、逆V字状の石積み遺構が確認されています。 この石積み遺構に関しては、現在のところ類例がなく、詳細は不明ですが、砲台に関連するなんらかの施設であるものと考えられます。台場の築造時期は、構築の際の整地土から出土した遺物より、18世紀後半から19世紀前半と考えられます。

〔写真〕遠景(北から望む。手前が台場)、土塁や石垣、逆V字状の石積み遺構