岩倉流泳法

〔種別〕無形民俗

 岩倉流泳法は、紀州に江戸時代から伝わる古式泳法として、全国的に有名です。紀州徳川家は代々、水泳に熱心で臣下の諸士に奨励しました。岩倉家は江戸時代中期の流祖から代々、水芸指南役をつとめました。基本的な泳ぎ方は「立泳」、「抜手」で、水上術・跳飛術・浮身術・飛込術・水中術などの様々な技術があります。武芸の一つではありますが、水難から逃れるため、あるいは人命救助にも重きをおいています。

〔写真〕御旗奉行、水中発砲、甲冑泳

那智山・熊野橋柱厳図屏風

〔種別〕絵画

 本図は右隻に那智山を、左隻に熊野灘の奇景橋杭岩図を描いた六曲一双の屏風(131.0cm×265.0cm)です。那智山図では右隻第四扇に流れ落ちる那智の滝を配し、周囲には雲間から覗く樹木や家々、渓流を配しています。また、左隻には熊野灘の広々とした水景に熊野橋杭の奇岩の連なる様子を俯瞰的に描いています。水墨を基調にしながらも集落や樹木などに淡く施された彩色が画面全体の奥行きと透明感を高める効果的なアクセントになっています。
 本図の作者である桑山玉洲(1746~1799)は木村蒹葭堂や池大雅等とも親交のあった紀州出身の文人画家です。

〔写真〕那智山図(右隻)、熊野橋柱巖図(左隻)

富岳図・山水図襖

〔種別〕絵画

 本図は念誓寺に伝わる桑山玉洲(江戸時代中期の紀州の文人画家)により描かれた16面の襖絵(各171.0×92.5cm)です。第1~第4面には水面の向こうに聳える富士を、第5面~第8面には重畳的な山々の間にある湖を、さらに向こうにのぞむ富士を描いています。また、第9面~第16面には所謂文人の理想郷を描いたと思われる、ゆったりとした湖面に幾重にも重なる岩山を配した山水図が描かれています。
 同じ玉洲作の「那智山・熊野橋柱岩図屏風」と同様に、水墨を基調としながら、淡く彩色を施すという手法を用いていますが、それ以外にも山の稜線や輪郭が強調され、山の皴などには墨点を打ち並べる米点法という技法を多用した独特の表現が随所にみられます。
 本図は襖絵や屏風といった大作を手掛けないことを一つのポリシーとしていた玉洲の稀有な大画面製作であり、その価値は非常に高いものと言えます。

〔写真〕富岳図・山水図襖(第7・8面)

加田家住宅(主屋、土蔵、腰掛待合、茶室、露地門、社、鳥居、表門及び塀)

 昭和4年(1929)建築の木造平屋建 、瓦葺建物です。三宝柑畑であった当地に、棟梁谷口亀三郎、補佐岡藤次郎が雁行型に伸びる主屋を、2年後に京都数寄屋大工平井儀三郎、笛吹嘉一郎によって不老庵、曉月亭の茶室が竣工しました。内外に意匠を凝らした邸宅です。

〔写真〕主屋玄関、主屋庭より、表門及び塀

大立寺の山門

 大立寺は文禄年間(安土桃山時代)の創建と伝えられています。山門は薬医門型式で高さは約5.6mです。この門は戦国時代末期の紀州在地勢力のひとつである太田党の居館であった太田城の大門を移築したものとされています。太田城は天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めの際に水攻めにあったことで著名です。その後大門のみが市内の吹屋町の天台宗功徳寺に移され、さらに第二次世界大戦後、現在の位置に移築されました。