太刀 銘備前国(以下不明 伝真長)(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 宝永5年(1708)5月に、五代藩主徳川吉宗が東照宮に奉納したものです。銘は「備前国」とあり、以下は不明ですが、直刃に小足入りで小互の目が交じる刃文を持つ刀身(身長79.7cm、反り3.4cm)は、三代藩主綱教が奉納した真長と共通する点が多く見られます。江戸時代に作られた太刀拵は、柄・鞘ともに紫の巻糸で、梨子地に葵紋を散らした蒔絵の鞘に魚々子を打った赤銅地に金で葵紋をあしらった金具が付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘真長(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 紀州藩三代藩主徳川綱教が奉納したもので、直刃に丁字足が入る刃文を持つ刀身(身長70.7cm、反り2.0cm)は五代藩主吉宗奉納のものと同様、鎌倉時代の備前鍛冶・真長の作です。江戸時代に作られた太刀拵は柄・鞘ともに紫色の巻糸で、鞘は梨子地蒔絵に赤銅造りの金具が付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘守家(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 刀身は、鎌倉時代中期頃の備前国畠田の刀工・守家の作です。特色とされる鞋子丁字は見られませんが、丁字乱互の目交じりの華やかな刃文の太刀(身長72.4cm、反り2.8cm)です。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵は、柄巻・渡巻ともに紫糸で、鞘は梨地に葵紋を散らした蒔絵で、魚々子を打った赤銅地に金の葵紋をあしらった金具を付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘左近将監景依(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 小沸のついた小乱に小丁字、小互の目交じりの刃文を持つ刀身(身長75.0cm、反り2.8cm)で、古備前派の末裔、景依の代表作として世に知られた太刀です。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵は、巻糸は茶色で、鞘は梨子地に菊紋と桐紋を交互に配した蒔絵に、魚々子を打った赤銅地に金で桐紋をあしらった金具を付けられています。また、帯執の先端にはめられた金の鬼面の意匠も秀逸です。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘国時

〔種別〕工芸

 山城鍛冶の来派の流れを汲む一派である肥後国延寿派の刀工・国時の太刀(身長71.2cm、反り1.8cm)です。国時の太刀は直刃の刃文を焼くことが多いですが、本刀は直刃の乱れごころで、地肌に白気がある点に流派の特徴があらわれています。当初は縹糸巻の太刀拵が付属していた模様ですが、現在は白鞘に納められています。享保6年(1721)徳川頼宣の五十回忌にあたり、5代藩主吉宗が奉納したものです。

〔写真〕刀身

太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 備前長船鍛冶隆盛の礎を築いた刀工・光忠の太刀(身長74.0cm、反り3.2cm)で、流派の特徴である華やかな丁字乱れの美しい刃文を持ちます。江戸時代に作られた附属する拵は、柄巻・鞘巻とも紫糸で鞘は梨子地に金の蒔絵紛を密に蒔きつめた沃懸地の桐紋を散らした蒔絵です。魚々子を打った赤銅地に金で桐紋をあしらった金具を付けた格調の高い太刀拵となっています。

〔写真〕糸巻太刀拵

津秦Ⅱ遺跡

 紀ノ川の南岸に位置する遺跡で、標高3.2m前後の沖積低地に弥生時代から中世の遺構が形成されています。遺跡の南端で行われた調査により、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の水田やそれに伴う水路、鎌倉時代の土坑や溝からなる居住域が確認されています。

〔写真〕水路と水田(古墳時代)

岩橋遺跡

 紀ノ川の南岸で岩橋千塚古墳群の北側に位置する遺跡です。標高7m前後の沖積低地に古墳時代初頭から中世にかけての集落が営まれています。発掘調査により古墳時代初頭の竪穴建物、奈良時代から平安時代の木組井戸、中世の井戸など各時期の遺構が確認されています。ただし、これらの遺構は各時期とも密集して確認されないため、それほど大きな集落ではなかったと考えられます。

〔写真〕竪穴建物、井戸(平安時代)

太田・黒田遺跡

 紀ノ川の南岸の和歌山駅の東側に広がる遺跡で、標高3~4mの沖積地に弥生時代から江戸時代までの集落が営まれています。特に弥生時代には前期に水田遺構や竪穴住居を伴う集落が形成され、中期後半には集落域が拡大し、和歌山平野のなかで拠点的な集落として機能します。集落内で石舌を内蔵する銅鐸(和歌山県指定文化財)が出土した遺跡としても著名です。
 また、奈良時代には刳り抜きの井戸から和同開珎42枚・万年通宝4枚(和歌山市指定文化財)が出土しました。銭貨の出土例としては全国的にも多い事例です。
 室町時代の太田・黒田遺跡の南半部は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めの際に、水攻めが行われたとされる太田城跡と推定されています。これまでの調査で太田城に関連するとみられる大規模な堀状の遺構が確認されています。

〔写真〕竪穴建物(弥生時代)、銅鐸、弥生土器、井戸(飛鳥時代)

川辺遺跡

 紀ノ川の北岸の川辺・里・中筋日延にまたがる遺跡で、標高11.5m前後の沖積低地に縄文時代後期から中世までの集落が営まれています。縄文時代から中世にかけて竪穴住居や墓、井戸、道路などさまざまな遺構が確認されています。縄文時代晩期には竪穴建物・土器棺墓が確認され、出土遺物には東北地方の大洞式土器や遮光器土偶など特徴的なものがあります。そのほか、飛鳥時代の多数の竪穴建物や堀立柱建物も検出されており、日本書紀に記述されている川辺屯倉との関連をうかがわせる成果として注目されます。

〔写真〕遺跡遠景(現イズミヤ付近)、竪穴建物、土器棺(縄文時代)、縄文土器鉢