砂之丸と同じく徳川頼宣が紀州入国後に拡張した郭で、城の南側の砂丘を掘り割って東西の道(現・三年坂通り)を造り、道の北沿いに南堀と石垣を築き郭として内郭へ取り込みました。南の丸には三棟の蔵が確認できるのみで、その機能は明らかになっていません。
岡口門
和歌山城を築城した当時は、南東部のこの門が正門である大手門でした。その後、浅野期に大手を一の橋の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。現在の門は紀州徳川家初代頼宣が、元和7年(1621)に城を拡張した際、整備したと考えられています。和歌山城の東側の地域は、中世では雑賀庄の岡と呼ばれていたので、この名がつきました。
岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀とともに昭和32年(1957)に重要文化財に指定。土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間が開けられています。
不明門
不明門は、明治42年(1909)9月1日付陸軍大臣宛和歌山市長加藤杲の申請書に「明カス門」とあり、和歌山城の他の門が全て訓読みなので、「あかす(ず)もん」と呼ばれたのでしょう。通常閉じられたままだったので、この名がつきました。遺体や罪人などを出す不浄門として使われたようです。
不明門の東側には南堀(現・空堀)を掘りましたが、西側は砂丘で水堀を掘れず、高石垣を築きました。