二の丸

二の丸

徳川期に本丸御殿が手狭なため、二の丸西部の堀の一部を埋め立て拡張し、殿様の居館や藩の政庁を置きました。
二の丸の機能は、藩の行事の場である表、殿様の日常の生活空間である中奥、殿様の奥泊りの際の寝所や奥女中の生活の場である大奥の三つに分かれていました。

二の丸詳細マップ
一の橋と大手門 北内堀と石垣上の櫓 二の丸・表 二の丸・中奥 二の丸・大奥 一の橋の樟樹 御橋廊下北の建物遺構 穴蔵状遺構 大奥

一の橋と大手門

和歌山城の大手門は、豊臣期には岡口門でしたが、浅野期の途中からこの場所に移ります。この門の北に架かる橋は、徳川期には「市之橋」と呼んでいましたが、寛政8年(1769)に「一の橋」と名を改めます。

明治初期の一の橋と大手門
〔明治初期の一の橋と大手門〕
「紀伊国名所図会」「大手御門辺の図」
〔『紀伊国名所図会』「大手御門辺の図」〕

大手門は高麗門形式で、一の橋には高欄擬宝珠が付いていました。大手門は明治42年(1909)5月に倒壊しましたが、昭和57年(1982)3月に再建され、翌年3月には一の橋が架けかえられました。

一の橋と大手門
〔現在の一の橋と大手門〕

北内堀と石垣上の櫓

和歌山城内郭の北を画する堀は、江戸時代には幅が約40メートルありましたが、明治44年(1911)の市街電車の複線化により埋め立てられます。

堀の南側の石垣上には、櫓などが立ち並んでいました。写真の右端の駿河櫓は、徳川頼宣が駿河からやってきたことにちなむ名称でしょう。その左にみえる二階建ての櫓が物見櫓です。浅野期にはここに「いぬいの角矢倉」があり、その西側は堀でした。紀州にやってきた徳川頼宣が、この堀の一部を埋め立てて二の丸を拡張したのです。

奥から駿河櫓・物見櫓・多門と続く(明治初年)
〔奥から駿河櫓・物見櫓・多門と続く(明治初年)〕
北内堀と石垣上の櫓(現在)
〔現在の北内堀と石垣上の櫓跡〕

二の丸・表

藩主の謁見や儀式を行う場であり、藩の政庁として役人が政務をとる場所でもありました。公式の行事を行う大広間や応接を行う対面所などがあり、身分格式に応じて藩士の座る場所が決まっていました。

大広間を中心とした建物は、明治18年(1885)に大阪城内に移築され、「紀州御殿」と呼ばれました。しかし、昭和22年(1947)に占領軍の失火で焼失しました。

大阪城に移築された紀州御殿
〔大阪城に移築された紀州御殿〕

二の丸・中奥

藩主の公邸で、殿様の居間と家老や側近の者、世話係の役所、それに風呂や台所関係の部屋がありました。大奥との間は塀や御錠口で厳重に区画しています。表との間には明確な境界は見当たりません。藩の政治と殿様に仕えることとが、一体のものだったからでしょう。

二の丸・大奥

二の丸の西端にあたり、御殿向・長局向・広敷向の三つにわかれます。北部の御殿向は、殿様の居間や寝所などとして使われました。西部の長局向には二階建ての長屋があり、奥女中たちの部屋が立ち並んでいました。南部の広敷向は、大奥の事務を行う役人たちの役所で、男性も出入りできました。

坪庭・漆喰池
〔坪庭・漆喰池〕

一の橋の樟樹

幹の周囲7メートル、高さ25メートルにも及ぶ城内最大の樹木です。推定樹齢は約450年です。昭和20年(1945)の和歌山大空襲で損害を受けますが、樹勢が回復し、今日に至ります。昭和33年(1958)4月1日、県の天然記念物に指定されました。

一の橋の樟樹
〔一の橋の樟樹〕

穴蔵状遺構

床面には、入口から約3分の2の広さで塼をひし形に目地を通して敷きつめています。奥側約3分の1は土壇状になっています。物を収納するための施設と考えられます。明暦元年(1655)の火災の後、入口を閉ざして使えなくしています。

閉塞時
〔閉塞時〕
検出時
〔検出時〕

御橋廊下北の建物遺構

江戸時代、御橋廊下の両脇に土塀がありました。発掘調査で北の土塀の基礎石組がみつかり、付近からは土塀に葺かれた軒平瓦が出土しました。

御橋廊下北側土塀基礎石組
〔御橋廊下北側土塀基礎石組〕

この土塀の北側で、多門(長屋造りの建物)の礎石列がみつかりました。多門は城を守る櫓であり、普段は物置や蔵として使われていたと考えられます。

多門櫓の礎石列
〔多門櫓の礎石列〕

平成18年度の整備工事で、多門の礎石列と土塀を復元しました。