砂の丸

砂の丸

徳川頼宣が紀州入国後に拡張した郭で、勘定御門から不明門の間までの一帯をいいます。
江戸後期には、北部に藩の財政を司る勘定所等が配置され、南部には松林が広がっていました。そのほかにも御薬園や同心居御長屋などが設けられていた時期もあったようです。

砂の丸詳細マップ
追廻門 吹上口

追廻門

追廻門は西から和歌山城に入る高麗門形式の門です。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名がつきました。

追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。

『紀伊国名所図会』「追廻し口辺往来の図」
〔『紀伊国名所図会』「追廻し口辺往来の図」〕
追廻門
〔追廻門〕

慶応2年(1866)、藩政改革による財政難を克服するため、津田出が登用されました。しかし翌年、保守派の反撃で津田は失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。門を出た左手奥にある石碑は、田中善蔵の顕彰碑です。

吹上口

吹上口は和歌山城内郭の北西部の入口です。吹上口は紀ノ川河口の紀伊湊に近く、西外堀でつながっていました。また、西外堀には吹上橋が架かっており、人間だけでなく、荷物を運ぶ牛馬も通行しています。物資の搬入口というのが、この場所の主な特徴といえるでしょう。

『紀伊国名所図会』「吹上御門辺の図」
〔『紀伊国名所図会』「吹上御門辺の図」〕

橋の南詰にあったのが高麗門形式の吹上御門です。南側に勘定奉行所に続く勘定御門、東側にあったのが三の丸との出入り口である吹上大御門(天保11年(1841)に「吹上冠木御門」から改称)です。また、船に物資を運搬するための雁木(石段)が西外堀に面してありました。しかし、明治以降、堀に架かる橋や門が撤去され、西外堀(西の丸川)の一部も埋め立てられました。

吹上口
〔吹上口〕