大奥

大奥

和歌山城では、近年御橋廊下に連なる二の丸西部整備のための発掘調査を実施しています。二の丸は藩主が生活し、政治を行ったところで、西部は大奥と呼ばれるエリアに相当します。これまでの発掘調査では、「和歌山二ノ丸大奥当時御有姿之図」(原図が文政8年(1825)の絵図)にみえる徳川期の遺構が確認されています。ここでは、絵図に描かれた主要な遺構を紹介します。

大奥詳細マップ
〔和歌山城整備企画課蔵〕
穴蔵 石組井戸 浅野期石垣 水琴窟 石組池 漆喰池 石組溝

穴蔵

石組の地下室で、幅1.8メートル、長さ4.6メートル以上、深さ2.3メートルを測る規模の大きなもので、床面に緑色片岩の板石を敷き詰め、側壁は砂岩の切石を用いて構築しています。最上部の石材が2点残されており、漆喰を用いて修理した痕跡や天板を受ける部分の状況などがわかりました。
穴蔵とは、地下部分の上を木製の板材などで覆って用いるもので、素掘りのままのものや全て木材で構築した例もあります。穴蔵の用途は地下式の倉庫で、常時金銀を納めたり、火災などの非常時に家財を一時的に避難させたりと、その用い方は様々であったとされています。

拡大図
〔拡大図〕
穴蔵(石組の地下室)(南東から)
〔穴蔵(石組の地下室)(南東から)〕

石組井戸

内径90センチメートル、深さ7.0メートルを測る石組の井戸を検出しました。井戸内部は江戸時代の旧状を良好に保っており、現在においても水が湧きだし井戸として機能しています。井戸の地表面は、砂岩の石材を板状に加工して並べ、一辺2.6メートルの正方形の範囲を石貼りとした精美なものです。

拡大図
〔拡大図〕
石組井戸(東から)
〔石組井戸(東から)〕

浅野期石垣

二の丸西部は江戸時代前期(徳川期)に西堀を埋め立て拡張したとされる部分ですが、この拡張前の西堀石垣(浅野期)が確認されています。砂岩の大きな自然石を野面積みにしており、間詰石(大きな石の隙間に詰める小さな石)に結晶片岩の割石を用いています。砂岩石材は自然石を数個に分割したものもあり、矢穴跡あと(石を割るときに楔(くさび)を入れた穴の跡)や石垣刻印(石材表面にみられる記号)、石垣面をノミ加工で平坦化している部分などもみられます。
このような石垣と同じ積み方のものは、現在の和歌山城では全く目にすることができませんので、和歌山城の石垣の変遷を考える上で貴重な例であるといえます。

拡大図
拡大図
浅野期石垣(北西から)
〔浅野期石垣(北西から)〕

水琴窟

深さ約60センチメートルの穴を掘り、高さ26センチメートル、胴径約30センチメートルの陶器製甕を逆さまに埋め込み、甕の底部中央に孔を開け、その上に直径約60センチメートルの皿状に漆喰で水門を設けたもので、皿の内側には玉石を入れていたものとみられ、絵図にみえる「御書斎」北西角の縁側にある手水鉢を置く場所の排水施設に相当するものと考えられます。この施設は甕の中に落ちる水滴の反響音を楽しむ鑑賞施設でもあります。

拡大図
〔拡大図〕
水琴窟(北から)
〔水琴窟(北から)〕

石組池

石組池は中庭の中央部で検出したもので、東西16.6メートル、南北7.2メートルの大きさです。平面形は幅2.0~2.5メートルの溝が「S」字を描くように造られており、いわゆる心字池(「心」の草書体に似せて造られた池)とみられます。池岸は、景石(庭石)とみられる球形や海蝕を受けた不整形な自然石を組み合わせて護岸しています。
また、池底は玉石貼りとなっており、流水を表現したような配列がみられる箇所もあります。高低差からみて、南から北側に水を流す仕組みとなっており、南西端部から導水したものと考えられます。

拡大図
〔拡大図〕
石組池(西から)
〔石組池(西から)〕

漆喰池

南北5.3メートル、東西3.56メートルの規模をもつ、瓢箪形の人工池です。池は漆喰を厚く塗り固めたもので、底面が北側に向かって低く作られています。池の南西隅に導水口、北端部に排水口があり、それぞれ土管が接続されています。また、池の北西隅には陶器製甕が埋め込まれており、観賞魚の寝床などとして利用されたものと考えられます

拡大図
〔拡大図〕
漆喰池(南東から)
〔漆喰池(南東から)〕

石組溝

二の丸内の排水を目的とした石組みの溝です。側面に砂岩、底面に結晶片岩が使用されており、西端の集水枡より堀に排水していた状況が確認されました。

拡大図
〔拡大図〕
石組排水施設(西から)
〔石組排水施設(西から)〕