四箇郷一里塚
〔種別〕史跡
四箇郷一里塚は和歌山市新在家にある近世の交通遺跡です。 一里塚は和歌山城の外堀(現在の市堀川)にかかる京橋を起点として、1里(約4km)ごとに旅行者に移動距離を示す目印として街道の両脇につくられたものです。四箇郷一里塚は京橋から出発して最初に通る一里塚です。現在も南塚と北塚が良好に残っています。
史跡指定時の松は、北塚が昭和54年(1979)、南塚が昭和59年(1984)に現在の松に植え替えられました。 抜き取った松の年輪を調べた結果、江戸時代にも何度か植え替えられていたことが判明しています。
〔写真〕現在の一里塚、昭和40年(1965)頃の一里塚
岩橋遺跡
紀ノ川の南岸で岩橋千塚古墳群の北側に位置する遺跡です。標高7m前後の沖積低地に古墳時代初頭から中世にかけての集落が営まれています。発掘調査により古墳時代初頭の竪穴建物、奈良時代から平安時代の木組井戸、中世の井戸など各時期の遺構が確認されています。ただし、これらの遺構は各時期とも密集して確認されないため、それほど大きな集落ではなかったと考えられます。
〔写真〕竪穴建物、井戸(平安時代)
長多家住宅(主屋、土蔵、長屋、土塀)
熊野街道近くに建つ明治前期の農家建築で、敷地中央に南面して建てられています。東西棟の切妻造本瓦葺で、桟瓦葺錣屋根の下屋庇をまわし、西に寄棟造桟瓦葺の座敷を付け、東に元土間、西に居室を田の字型に配しています。座敷部は十畳で、床の間と付書院を構え仏壇を置きます。伝統的な形態を受け継ぎ、優れた農村景観を形成しています。
〔写真〕主屋
宇藤家住宅(主屋、長屋門、納屋及び門)
熊野街道近くの農家建築で、敷地中央に南面して建てられます。明治前期の建築で、大正前期に増築、平成12年(2000)に改修されています。
木造平屋建、瓦葺の主屋の棟は東西方向とし入母屋造で下屋庇をまわします。西に入母屋造錣葺の座敷を付け、正面は上部壁を黒漆喰仕上げとし、下部は腰板張で黄漆喰仕上げとしています。変化に富む外観をもつ近代農家建築です。
〔写真〕主屋
中筋家住宅(主屋、西蔵、長屋門、便益棟、座敷及び東蔵)
市内東部、紀ノ川南岸に広がる和佐地区にあります。地区の大庄屋中筋家(重要文化財)から文政10年(1827)に分家した家で、主屋は明治20年(1998)建築の大規模な木造平屋建、桟瓦葺の建物です。成の高い差鴨居、桜材の座敷縁などふんだんに良材を用いて高度な技能で造られた建物です。
〔写真〕主屋
歓喜寺の柏槙
柏槙はイブキともいい、ヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉高木です。短い葉が付いた枝は上に向かって伸び、全体として炎のような樹形になります。禰宜の歓喜寺で、本堂東側の墓地との境界の斜面に生育している柏槙は、樹高13m、胸高幹周り3.7mの巨木です。現在は墓地となっている区域は、もとは水田であり、その畦畔に生えていたようです。根元から1.5~2mの部分から3本の幹がわかれています。北西の幹は長さ4mで、ほぼ水平にのびて池の水面を覆っています。最も大きい西の幹は長さ9mで、幹元から6mの部分でさらに西側に分岐しています。枝張りもよく良好な樹観を形成しています。
光恩寺庫裡
光恩寺は戦国時代の天正19年(1591)に創建された寺院で、明治8年(1875)に火災で庫裏・本堂・書院が全焼しました。明治13年(1880)に和歌山城が取り壊されつつあったため、本丸御台所の払い下げを受け庫裡とし、本丸建物を移し本堂としました。しかし、本堂は明治14年(1881)に暴風雨により倒壊し、現在庫裏のみが残っています。
建物の大きさに比べて小さい入り口や防御に適したうち開きの扉、太い部材を使用する柱や垂木などは城郭建築の特徴を示し、屋根の軒瓦には徳川家の家紋である三葉葵紋が使用されています。庫裏内の杉製の引戸は、表面には竹林と二頭の虎が、裏面には水辺に遊ぶガチョウ(鵞鳥)が描かれており、当時の装飾の様子もうかがうことができます。和歌山城内の建物は取り壊しや戦災によってほとんど失われており、残されているのは城内の岡口門(国指定重要文化財)とこの光恩寺の庫裏のみであり、当時の様相を知る上で貴重な建物です。
〔写真〕庫裡外観、杉戸絵(ガチョウ)