坂部家住宅主屋

 主屋は有田市箕島に建っていたのを文久2年(1862)に現在地まで「いかだ」で運び移築したものです。費用は当時「銀弐拾弐貫目(約82kg)」を要したと記載されています。江戸後期の木造平屋建の瓦葺で、特に鶴を描いた襖絵が立てこまれた「鶴の間(22畳)」と称する座敷が華やかです。

三尾家住宅(主屋、土蔵)

 国道42号線の近傍に建つ町家で、天保12年(1841)建築の木造二階建 、瓦葺建物です。一階に格子窓を配し、二階正面には虫籠窓を左右対称に備えた端正なつくりです。
 市内に残る数少ない江戸期の建築の一つで、歴史的街路景観を形成する貴重な住宅です。

〔写真〕主屋

井上家住宅

 元は和歌山市永穂にあった農家を、昭和16年(1941)に移築したものです。江戸末期に建築された木造平屋建で、一階は四間取形式で西側に土間を設けています。屋根は入母屋造本瓦葺で、正面に二間の玄関を設ける豪壮な建物です。和歌山市北部の庄屋宅を代表する住宅で、外観の城郭風の壁等に技能の高さがうかがわれます。

李梅渓の墓

〔種別〕史跡

 李梅渓は元和3年(1617)に李真栄の子として紀州に生まれます。寛永11年(1634)には家督を相続し、30石の儒者となります。藩儒学者永田善斎の弟子となり、京都にも遊学し、後に切米80石に加増されています。寛文12年(1672)「徳川創業記考異」を30年かかって完成させ幕府に献上するとその功績により知行300石に加増されます。のちに、葛城山麓の梅原村(現和歌山市)を与えられ、梅渓と号したとされています。
 また、李梅渓は頼宣に命じられ「父母状」を作成しています。父母状は親孝行の大切さや、法律を守ること、正直を第一として家業に専念することなどが書かれており、領内に配布されました。父母状の碑は、海善寺のほかに岡公園にも建てられています。
 李梅渓は天和2年(1682)10月22日に亡くなり、父真栄の墓のある海善寺に葬られました。

西岸寺の板碑

〔種別〕史跡

 板碑は西岸寺の墓地のほぼ中央にあります。この板碑は大坂夏の陣(1615年)で戦死した安藤彦四郎重能(享年29)の供養のため弟の安藤彦兵衛が建立したものです。建立年代は銘文にはないものの建立者名などから考えて寛永年間はじめ(1620年代)と考えられます。
 安藤彦四郎は紀州徳川家家老である田辺藩主安藤帯刀の嫡子でしたが、大坂夏の陣で戦死し、はじめ大阪の長福寺(大阪市平野区)に葬られますが、のちに三河国へ改葬されました。西岸寺の寺伝によると、この板碑はもと大阪の一心寺(大阪市天王寺区)にあったもので、安藤彦四郎の孫である第4代田辺藩主安藤直清により和歌山に移転されたと考えられます。

野呂介石の墓

〔種別〕史跡

 野呂介石は、延享4年(1747)1月20日に町医である野呂方紹の第5子として生まれます。14歳で京都に出て黄檗僧鶴亭について墨竹を習います。一旦郷里に戻るものの再び上京し、21歳の時、池大雅について文人画の技法を修得します。また、同郷の桑山玉洲や大坂の文人・木村蒹葭堂とも交流を深めています。
 寛政5年(1793)、47歳の時には紀州藩士に取り立てられ、以後、公務のかたわら熊野をはじめとする紀州各地を訪れて、豊かな自然や風景を題材に精力的な絵画制作を続けました。さらに、当時の日本の文人画家たちがあこがれた中国絵画からも多くを学びました。
 介石は文政11年(1828)3月14日に82歳で亡くなり、吹上の護念寺に葬られました。

桑山玉洲の墓

〔種別〕史跡

 桑山玉洲は延享3年(1746)に廻船業・両替商を営む桑山昌澄の子として和歌浦に生まれます。父昌澄は玉洲が7歳の頃に亡くなったため、若くして家業を継ぎ新田開発事業にも着手するなど事業家として活躍します。現在、和歌山市の和田盆地にはその業績を称え、桑山の地名が残されています。
 一方で、玉洲は幼少から独学で書画の研究に励み、20代の頃には本格的に画を学ぼうと江戸の書画家を訪ねています。帰郷してからは真景図など独自の絵画世界を築きます。また、優れた画論家としても著名です。玉洲は寛政11年(1799)4月13日に54歳で亡くなり、桑山家の菩提寺である和歌浦宗善寺に葬られました。

瑤林院の墓

〔種別〕史跡

 瑤林院は慶長6年(1601)に加藤清正の娘として生まれます。その後、元和3年(1617)に徳川頼宣の正室となり、元和5年(1619)に頼宣が紀州藩主となると、頼宣とともに紀州に入り、寛永10年(1633)に江戸の紀州藩邸に移るまで14年間和歌山城で暮らしました。寛文6年(1666)に瑤林院が66歳で亡くなると、同年頼宣は和歌山市の要行寺に葬りました。
 その後、寛文10年(1670)に第二代藩主光貞は、母の追善のため諸堂を建立し、日順を開祖として寺号を現在の報恩寺と改め、報恩寺は歴代藩主の夫人・姫ら一族、藩士の菩提を弔う役割を果たしました。

望海楼遺址碑 (仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。砂岩製で、高さ182cm、幅80.5cmです。天平神護元年(765)の称徳天皇の和歌浦行幸の際に「望海楼」が営まれましたが、奠供山の南麓がその遺址であるとされています。
 碑は、元は奠供山麓の市町川沿いに建てられていましたが、現在は奠供山山頂に置かれています。

安原荘御舩山之碑 (仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。紀州藩内の24か所に建碑されたということですが、市内には5基が現存します。
 安原荘御舩山之碑は安原八幡神社に所蔵され、他の碑が石製であるのに対して木製であり、高さ186cm、幅72.8cmです。文化11年(1834)に碑文を作成しています。碑文の内容は、記紀に伝わる神功皇后の三韓征伐の後、皇后と誉田別尊(後の応神天皇)が忍熊王の難をさけ紀水門に到着し、津田浦(現在の安原小学校の辺り)に再上陸し頓宮を営んだ跡が、安原八幡神社であるとされています。