東照宮唐門・東西瑞垣

 社殿正面に檜皮葺の唐門があり、唐門の東西には檜皮葺の瑞垣が連なります。唐門には本殿と同様に彫刻・極彩色・漆塗などの装飾が施されています。瑞垣は朱漆塗りの透塀造りで、東瑞垣には掖門と呼ばれる小さな門がつきます。

〔写真〕唐門と瑞垣、唐門

総持寺総門

 紀ノ川北岸の梶取集落内に位置する総持寺は、宝徳2年(1450)に開かれた浄土宗西山派の寺院です。寛文年間(1661~1672)に禅林寺・光明寺の末寺となりますが、紀伊・和泉八十八ヶ寺の末寺を有し、同派檀林(学問寺)七ヶ寺の1つに数えられる名刹です。本堂・総門、釈迦堂・玄関・開山堂・鐘楼などいずれも江戸時代末までに建立されたもので、学問寺としての機能をもつ寺格に相応しく、近世寺院建築を理解する上で重要です。
 総門は、本堂などの大規模な建物群に見合った極めて大型の四脚門です。木鼻や拳鼻にやや複雑な彫刻がみられるものの、虹梁には若葉の彫刻がなく、17世紀中頃の意匠を示しています。当寺のなかでは、鐘楼とともに最も古い時期の建物とみられます。

総持寺本堂

 紀ノ川北岸の梶取集落内に位置する総持寺は、赤松則村の孫明秀により宝徳2年(1450)に開かれた浄土宗西山派の寺院です。16世紀中頃、御奈良天皇・正親町天皇の勅願寺となり、天正13年(1585)年の羽柴(豊臣)秀吉の兵火により焼かれましたが、直ちに復興されました。その後、寛文年間(1661~1672)に禅林寺・光明寺の末寺となりますが、紀伊・和泉八十八ヶ寺の末寺を有し、同派檀林(学問寺)七ヶ寺の1つに数えられる名刹です。本堂・総門、釈迦堂・玄関・開山堂・鐘楼などいずれも江戸時代末までに建立されたもので、学問寺としての機能をもつ寺格に相応しく、近世寺院建築を理解する上で重要です。
 本堂は大規模な建物で、方七間、縁通りまで入れると桁行九間、梁間八間相当の規模となります。内部は広大な空間の中に6本の円柱を二列に立て、これらを繋いで縦横に虹梁が架けられ、虹梁上に組物や蟇股を整然と配置しています。来迎柱頂部に安政元年(1854)の墨書があるので、造営もこの頃とみられますが、天井板に明治11年(1878)の墨書もあるので、完成はこの頃まで下るとみられます。

和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

那智三瀑図 野呂介石筆

〔種別〕絵画

 本図(縦125.0cm、横48.6cm)は江戸時代後期の紀州を代表する文人画家野呂介石が描いた晩秋の那智の滝図です。周辺の堂社等は一切描かず、那智の一の滝を画面のほぼ中央に据え、一の滝の上流に位置する二の滝、三の滝を俯瞰して一画面に描いています。全体を色彩の面と点で表現する彩色法は画面全体にさわやかで明るい印象を与えており、特に地理的説明を加えず、紅葉のグラデーションと滝の美しさのみを見事にとらえた表現に介石らしい画風が伺えます。

刀 銘於南紀重国造之

〔種別〕工芸

 本品(身長70.3cm 反り1.7cm)はやや寸の詰まった小鋒の鎬造で、浅くのたれた中直刃を焼き、鎬地には棒樋を掻いてハバキ元で角止めとしています。茎尻は角度の浅い切風の栗尻で、目釘孔を二つもうけ、指表に角ばった鑿運びで「於南紀重国造之」と銘を切っています。南紀重国は元大和手掻派から出た刀工で、徳川家康に召抱えられ駿府で刀を作っていましたが、徳川頼宣の紀州入りに従い和歌山に移り、紀州藩お抱えの刀工として活躍しました。

〔写真〕刀身

保田紙の製作用具

〔種別〕有形民俗

 紀州藩初代藩主の徳川頼宣が製紙業の復興を命じ、有田郡の山保田組大庄屋の笠松左太夫が奈良の吉野から製紙技術を導入し、清水で盛行させたのが、保田紙の由来とされています。
 紀州藩の御用紙として納められていた保田紙は、大正から昭和初期に最盛期をむかえ、400軒もの紙漉き屋が軒を連ねたといわれます。昭和28年(1953)の紀州大水害で有田川が氾濫して大きな打撃を受け、またその頃から和紙の需要が減少したことにより、製紙業が衰退しました。
 近年は伝統技術として復興され、継承されています。保田紙の製作用具は、和歌山県立紀伊風土記の丘が、民具の調査で収集しました。

日高地域の地曳網漁用具及び和船

〔種別〕有形民俗

 地曳網とは、アミブネとよばれる和船2艘が、沖合いの同一の場所から網を置きながら左右に分かれて魚群を包囲し、両端の網を陸からひいて魚を獲る漁法です。近世初頭には漁法が確立し、紀伊半島の沿岸漁業の主要な位置を占め、特に日高郡周辺の漁村に多く分布していました。県立紀伊風土記の丘が平成11~12年(1999~2000)に、日高町産湯地区で地曳網漁の民具、和船、網元経営の文献がそろった一括資料として収集しました。

〔写真〕和船、漁業用具、漁業用具

関口新心流柔術・居合術・剣術

 関口流は、江戸時代初めに開かれた古武道の一つで、現代の柔道・合気道・剣道・居合を含む総合武術です。関口家は流祖から代々、紀州藩の指南役をつとめました。全国に伝播した関口流の源流が、和歌山の関口新心流とされています。柔術・居合術・剣術あわせて89本の型が、現在も関口新心館道場に継承されています。全ての技が「揚柳」ともいう柔らかな力の使い方をもとに組み立てられています。

六堰続渠之碑(仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。船所の紀ノ川の川岸にあり、砂岩製で高さ162.5cmです。文化2年(1805)から文政5年(1822)にかけて行われた紀ノ川北岸の農業用水路の開削事業を顕彰したもので、天保5年(1834)に碑文が作成されています。