和歌山城跡

 和歌山城跡は、和歌山市和歌山城周辺に所在する近世の武家屋敷である三の丸を中心とした遺跡です。
 和歌山城の南東部を調査した折には、江戸時代末期の『和歌山城下町図』に描かれた百軒長屋の敷地東辺を区画する溝を、紀州徳川家家老水野家の屋敷地跡の調査では、礎石立建物や基礎石組、石組溝等の屋敷地に関係する遺構群を検出しています。
 和歌山地方・家庭・簡易裁判所の新庁舎建設にあたり実施された発掘調査では、屋敷地境界施設や井戸・石組枡・暗渠などの水周り施設が確認されています。また、その下層では古墳時代や鎌倉時代の遺物のほか、室町時代の土坑墓や粘土採掘穴とみられる遺構がみつかっており、和歌山城築城以前にも人間の活動痕跡が認められます。

〔写真〕水野家家紋軒瓦、水野家屋敷地、水野家屋敷地出土遺物

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋

養翠園

〔種別〕名勝

 養翠園は紀州藩十代藩主徳川治宝の別邸である水軒御用地の庭園として文政元年(1818)から9年(1826)にかけて造営した回遊式庭園です。現存する海浜の立地及び風致を活かした「汐入」の様式をもつ庭園は徳川将軍家の別邸浜御殿を前身とする浜離宮恩賜公園と養翠園だけであり、非常に貴重なものです。
 庭園は養翠亭を中心に構成されており、L字型の敷地の東側には天神山や章魚頭姿山を借景とした広大な池泉が設けられ、敷地の南辺と西辺は松ヶ枝堤により隣接する大浦湾と園内が区切られています。
 庭園の景色は池泉の東側と西側で大きく異なり、東側は北岸から池泉の中央に配された中島に向けて直角に曲がる土堤が伸び、三つ橋と太鼓橋が架けられた中国杭州の西湖の蘇堤をモチーフとした中国風のものになっています。それに対し、養翠亭よりの西側は曲線的な護岸壁をもち、章魚頭姿山を借景に持つ周囲の自然を取り込んだ日本的な回遊式庭園となっています。なお、三つ橋と太鼓橋は明治中期に掛け替えられたコンクリート製のものですが、保存されているコンクリート構造物としては初期のものであり、非常に貴重なものです。
 池泉の西側に建つ書院養翠亭は、池泉を臨む御座の間、あやめ池の正面にある次の間、露地を伴う茶室の実際庵等が付属しています。

〔写真〕養翠亭、天神山を望む、三つ橋

加納諸平の墓

〔種別〕史跡

 幕末の国学者、歌人である加納諸平は、遠州白須賀の人で、国学者であり歌人でもあった夏目甕磨の長子として文化3年(1806)9月に生まれました。文政4年(1821)、父に伴われ近畿を歴遊し、和歌山城下に本居大平を訪ねた際に、大平の推挙により紀州藩奥医師加納伊竹の養嗣子となりました。天保4年(1833)に紀州藩国学所総裁を勤め、『紀伊続風土記』『紀伊名所図会』の編者でもありました。墓碑は加納家の墓所の中にあり、墓石は花崗岩製であり、正面に「加納諸平墓」、裏面に「安政四年丁巳六月二十四日」と刻銘された自然石の主石が台石の上に置かれています。

徳川頼宣所用装束類

〔種別〕工芸

 徳川頼宣所用品として紀州徳川家に伝来していた装束類で、明治9年(1876)に徳川茂承により鎧櫃ごと甲冑類とともに南龍神社に奉納され、後に南龍神社と東照宮が合祀された際に東照宮の所蔵となりました。これらは縹糸威胴丸具足とともに頼宣が初陣である大坂冬の陣(1614年)で着用したものと伝えられていますが、いずれも子供用のやや小ぶりな寸法となっていることからも信憑性は高いものと思われます。なお、特筆すべき点として、陣羽織の高く立ち上がった襟や金モール紐の襟首留め、鎧下着の立襟や襟留の為のくるみ釦、脇から袖にかけての曲線裁断などに当時流行した南蛮服飾の影響が伺われます。

〔写真〕陣羽織

馬具

〔種別〕工芸

 東照宮には徳川家康所用品の馬具が伝来しています。黒漆塗鞍鐙と金貝蒔絵鞍鐙は頼宣が、海老蒔絵鞍鐙と桑木鞍は茂承が奉納したものです。なお、天正17年(1589)銘のある黒漆塗鞍鐙と天正16年(1588)銘のある金貝蒔絵鞍鐙には井関作の墨書があります。特に、金貝蒔絵鞍鐙は前輪・後輪の両面と居木上面・鐙に厚手の金・銀蒔絵で霰と雷文を施した豪華なものです。

〔写真〕金貝蒔絵鞍、海老蒔絵鐙

神輿

〔種別〕工芸

 屋蓋・身舎・基壇の構成からなる神輿(総高173.7cm、最大幅132.3cm、最大奥行291.8cm)で、明和4年(1767)に京都麩屋町の神輿師桒嶋作右衛門により制作されました。屋蓋は宝形造りで、露盤に鳳凰を立て、4面には近衛牡丹が金蒔絵で描かれています。身舎の上方には龍の彫刻の欄間を、正面には扉を配し、基壇の四方には鳥居と欄間を配し、2本の長柄が付けられています。
 中世以来、和歌神として尊崇された玉津島神社は江戸時代に復興を遂げると同時に、朝廷との結び付きも深まり天皇や公家による和歌奉納が慣例化しました。神輿が調進された明和4年2月にも奉納がおこなわれており、『紀伊国名所図会』(江戸時代後期)に神輿の寄進者として名を残す近衛家の当主も加わっていました。

和歌祭仮面群 面掛行列所用品

 〔種別〕彫刻

 紀州東照宮では、徳川家康の命日にあたる4月17日に春の祭礼である和歌祭がおこなわれています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。この「和歌祭仮面群」は渡御行列に加わる練り物の一つである「面掛」に使用された仮面(96面)です。和歌祭の「面掛」は行列に参加する仮面の多さから「百面」とも呼ばれ、和歌祭の練り物の中でも特異な存在です。
 紀州東照宮には、この「面掛」に使用される能面・狂言面・神楽面・鼻高面など96面が伝わっており、これらの面の中には仮面の裏側に「方廣作」という銘文を持つ鎌倉時代末期から南北朝時代にさかのぼる可能性のある神事面をはじめ、室町時代に製作されたと考えられる古風な様式を持った能面・狂言面、近世初頭の有力な面打である「出目満庸有閑(天下一有閑)」が製作した能面など中世~近世の仮面の展開を考える上で重要な情報を有しています。

〔写真〕尉「方廣作」(神事面)、大飛出「出目満庸有閑(天下一有閑)」、和歌祭仮面群

和歌祭祭礼所用具

〔種別〕工芸

 紀州東照宮では、徳川家康の命日(4月17日)に、春の祭礼である和歌祭が行われています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。
 和歌祭祭礼所用具は「常装束」に分類される舞楽装束類、特定の舞楽の曲目に使用される装束や楽器類、舞楽とは異なる芸能に関する道具類の3種に分類されます。このうち、袍・半臂・下襲・表袴・踏掛・鳥甲等からなる「常装束」は右方(半島系曲目・緑色系装束)、左方(大陸系曲目・赤色系装束)ともにほぼ10組ずつ確認され、和歌祭の楽人装束として使用された可能性が高いものです。「常装束」は染織や刺繍の技法的特徴が大阪市天王寺舞楽所用具と近似することから、和歌祭に舞楽が取り入れられた寛永7年(1630)頃の製作と考えられます。また、「新靺鞨」「林歌」の装束に関しては、拝領装束として紀州東照宮に伝来したものとみられます。
 これらの拝領装束は、「和歌祭祭礼御行列書」の文政8年(1825)の条に「林歌」の曲目が掲載されていること、文政期の第十代藩主徳川治宝が雅楽や舞楽を愛好したことから、文政期に制作された可能性が高いと考えられます。

〔写真〕半臂、鳥兜 、常装束部位名称図