総光寺由来并太田城水責図 附総光寺中古縁起

〔種別〕絵画

 惣光寺は市内太田の南西部にある真言宗の寺院です。総光寺由来并太田城水責図(169.5cm×135.0cm)は惣光寺(総光寺)の縁起と、羽柴(豊臣)秀吉の太田城水攻め(天正13年(1585))による太田村の苦難を、太田村の村民や惣光寺の檀家に絵解きして伝えるために江戸時代に作成されたと考えられます。本図は9図から構成されており、空海による総光寺開基の説話と天正の初めの宮郷と雑賀の領地争いによる兵火で音浦(現在の花山)から現在の地(太田)に移った由来を上段に、太田城水攻めの様子を下段に描いています。原本となる絵巻があったと考えられる上段部分が右から左に場面が展開するのに対して、下段は右回りに場面が展開しています。
 また、中古縁起(36.2×661.0cm)は、水責図とともに惣光寺に所蔵され、空海による開基の説話と天正の領地争いによる兵火で現在の地に移った由来、総光寺の永意ほか数名の僧が護摩を焚く図、小牧の陣屋で永意が家康から小袖を賜る図と小牧・長久手の戦いに関する図、太田城水攻めの様子などが描かれています。水責図とともに、当地域の中世の様子を伝える資料として重要です。

〔写真〕水責図、水責図(詳細)、中古縁起(水攻め図)、中古縁起(護摩を焚く図)

冬景山水図

〔種別〕絵画

 本図(40.7cm×52.4cm)は画面右の岩山から滝が流れ、湖面へと注ぎ、広々とした湖に2人の高士が佇む姿が配されています。画面左上には祇園南海自筆の五言二句の詩が添えられ、画と詩の一体化が図られています。
 紀州藩の儒官で文人画家である作者の祇園南海(1676~1751)は中国から舶載された画譜を通して、中国の文人画の画風や知識を習得し、柳沢淇園や池大雅等の後進を多く育てたことから、「日本の文人画の祖」と呼ばれています。

那智山・熊野橋柱厳図屏風

〔種別〕絵画

 本図は右隻に那智山を、左隻に熊野灘の奇景橋杭岩図を描いた六曲一双の屏風(131.0cm×265.0cm)です。那智山図では右隻第四扇に流れ落ちる那智の滝を配し、周囲には雲間から覗く樹木や家々、渓流を配しています。また、左隻には熊野灘の広々とした水景に熊野橋杭の奇岩の連なる様子を俯瞰的に描いています。水墨を基調にしながらも集落や樹木などに淡く施された彩色が画面全体の奥行きと透明感を高める効果的なアクセントになっています。
 本図の作者である桑山玉洲(1746~1799)は木村蒹葭堂や池大雅等とも親交のあった紀州出身の文人画家です。

〔写真〕那智山図(右隻)、熊野橋柱巖図(左隻)

富岳図・山水図襖

〔種別〕絵画

 本図は念誓寺に伝わる桑山玉洲(江戸時代中期の紀州の文人画家)により描かれた16面の襖絵(各171.0×92.5cm)です。第1~第4面には水面の向こうに聳える富士を、第5面~第8面には重畳的な山々の間にある湖を、さらに向こうにのぞむ富士を描いています。また、第9面~第16面には所謂文人の理想郷を描いたと思われる、ゆったりとした湖面に幾重にも重なる岩山を配した山水図が描かれています。
 同じ玉洲作の「那智山・熊野橋柱岩図屏風」と同様に、水墨を基調としながら、淡く彩色を施すという手法を用いていますが、それ以外にも山の稜線や輪郭が強調され、山の皴などには墨点を打ち並べる米点法という技法を多用した独特の表現が随所にみられます。
 本図は襖絵や屏風といった大作を手掛けないことを一つのポリシーとしていた玉洲の稀有な大画面製作であり、その価値は非常に高いものと言えます。

〔写真〕富岳図・山水図襖(第7・8面)

和歌御祭礼図屏風

〔種別〕絵画

 本図は徳川家康の命日(4月17日)に行われる紀州東照宮の春祭和歌祭を描いた六曲一双の祭礼図屏風(169.5cm×373.5cm)です。本図の構図も多くの和歌祭図とおなじく、左隻上部に天満宮、右隻上部に東照宮を配し、片男波の砂嘴と入江を中央部から下部へ描き、東照宮から出発して右隻下部の御旅所に至る渡御行列と巡行路の風物を描いています。左隻三扇には天下一出羽のまねき看板をつけた人形浄瑠璃の一行がみられることから、徳川家康の50年忌である寛文5年(1665)の祭礼を描いたものと考えられます。
 頼宣により規模縮小を命じられる寛文6年(1666)以前の盛大な和歌祭を周辺の景観まで詳細に描いていることから、近世初期の風俗画としても貴重な資料の一つといえます。

〔写真〕右隻、左隻

報恩寺の梵鐘

〔種別〕工芸

 報恩寺は二代藩主徳川光貞が、養母である瑶林院(徳川頼宣正室・加藤清正娘)の追福のため菩提所であった要行寺を改めて、造営した寺院です。
 本寺の梵鐘(総高159.0cm(龍頭29.0cm・鐘身130.0cm)、口径91.0cm)は江戸時代初期の典型的な作風を示しており、乳の間に各区5段5列25個、縦帯上部に各2個の合計108個の乳をそなえ、池の間の第一区および第二区には梵鐘鋳造の由来を記した銘文が刻まれています。また、八弁蓮華文の撞座が龍頭にそって2個あり、草の間には牡丹唐草と獅子が施文されています。
 池の間に刻まれた銘文により、本梵鐘は光貞の娘台嶺院(関白一条冬経正室)の菩提を弔うために報恩寺の開山である日順上人が施主となって鋳造されたものであることがわかっています。

〔写真〕梵鐘、梵鐘各部名称

紀伊国名所図会板木

 文化8年(1811)から刊行された紀伊国の社寺・旧跡・名勝などの由緒や来歴を地域別に紹介した地誌「紀伊国名所図会」の板木344枚(各長50cm×幅23.0cm×厚2.5cm)です。全18巻23冊(初編・二編・三編・後編ただし熊野編を除く)からなるこのシリーズを企画、執筆、出版したのは和歌山城下の出版人、七代目帯屋伊兵衛こと高市志友でした。しかしながら、三編完成前に志友が没した後は、紀州藩御抱絵師が加わり、後編では10代藩主徳川治宝の命により加納諸平が編集に当たるなど次第に紀州藩主導の刊行事業となっていきました。「紀伊国名所図会」初編の出版は、江戸時代の名所図会出版第1期ブームと第2期ブームの間にあたり、この時期は再版物がほとんどであったため、「紀伊国名所図会」の出版は多くの人々に新鮮味と興味を呼び起こしたと思われます。

刀 銘長曽称興里入道虎徹

〔種別〕工芸

 寛文2年(1662)、初代藩主徳川頼宣が命じて造らせたという伝承がある虎徹作の長刀(身長98.5cm)です。虎徹とは、甲冑師でもあった長曽祢興里の入道名の一つで、興里は江戸時代前期の新刀の名工です。昭和2年(1927)5月、紀州徳川家第16代当主徳川頼貞により奉納されました。

〔写真〕刀身

太刀 銘備前国(以下不明 伝真長)(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 宝永5年(1708)5月に、五代藩主徳川吉宗が東照宮に奉納したものです。銘は「備前国」とあり、以下は不明ですが、直刃に小足入りで小互の目が交じる刃文を持つ刀身(身長79.7cm、反り3.4cm)は、三代藩主綱教が奉納した真長と共通する点が多く見られます。江戸時代に作られた太刀拵は、柄・鞘ともに紫の巻糸で、梨子地に葵紋を散らした蒔絵の鞘に魚々子を打った赤銅地に金で葵紋をあしらった金具が付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘伯耆大原真守(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 刀身は、平安時代後期の伯耆国の刀工で、安綱の子といわれる真守の作です。小乱に小丁字交じりの刃文を持つ腰反りの高い小鋒の太刀(身長75.2cm、反り2.4cm)です。二字銘の「真守」や三字銘の「真守造」が多いなかで長銘を切っている点も貴重であり、大原真守を代表する名作として知られています。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵は、柄巻・渡巻ともに茶色の巻糸で、鞘は梨子地蒔絵に魚々子を打った赤銅地に金の葵紋をあしらった金具が付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵