太刀 銘真長(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 紀州藩三代藩主徳川綱教が奉納したもので、直刃に丁字足が入る刃文を持つ刀身(身長70.7cm、反り2.0cm)は五代藩主吉宗奉納のものと同様、鎌倉時代の備前鍛冶・真長の作です。江戸時代に作られた太刀拵は柄・鞘ともに紫色の巻糸で、鞘は梨子地蒔絵に赤銅造りの金具が付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘守家(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 刀身は、鎌倉時代中期頃の備前国畠田の刀工・守家の作です。特色とされる鞋子丁字は見られませんが、丁字乱互の目交じりの華やかな刃文の太刀(身長72.4cm、反り2.8cm)です。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵は、柄巻・渡巻ともに紫糸で、鞘は梨地に葵紋を散らした蒔絵で、魚々子を打った赤銅地に金の葵紋をあしらった金具を付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘左近将監景依(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 小沸のついた小乱に小丁字、小互の目交じりの刃文を持つ刀身(身長75.0cm、反り2.8cm)で、古備前派の末裔、景依の代表作として世に知られた太刀です。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵は、巻糸は茶色で、鞘は梨子地に菊紋と桐紋を交互に配した蒔絵に、魚々子を打った赤銅地に金で桐紋をあしらった金具を付けられています。また、帯執の先端にはめられた金の鬼面の意匠も秀逸です。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 備前長船鍛冶隆盛の礎を築いた刀工・光忠の太刀(身長74.0cm、反り3.2cm)で、流派の特徴である華やかな丁字乱れの美しい刃文を持ちます。江戸時代に作られた附属する拵は、柄巻・鞘巻とも紫糸で鞘は梨子地に金の蒔絵紛を密に蒔きつめた沃懸地の桐紋を散らした蒔絵です。魚々子を打った赤銅地に金で桐紋をあしらった金具を付けた格調の高い太刀拵となっています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘安綱(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 紀州藩初代藩主徳川頼宣が父である家康の五十回忌に際し、奉納した太刀です。刀身(身長80.6cm、反り2.5cm)は平安時代後期の伯耆国の刀工・安綱の作で、広直刃に小互の目を交えた美しい刃文を持ちます。江戸時代に作られた太刀拵は典型的な糸巻き太刀拵で、柄・鞘ともに巻糸は茶とし、鞘は梨子地に葵紋を散らした蒔絵です。金具はすべて魚々子を打った赤銅地に金で葵紋をあしらった華麗なものです。

〔写真〕糸巻太刀拵

小原桃洞墓

〔種別〕史跡

 紀伊藩医で名は良貴、通称源三郎、号桃洞といいます。医学を吉益東洞に、本草学を小野蘭山に学びました。1,700余品の動植鉱物を集録した『本草余纂』が主著で、ほかに『南紀土産考』『南海介譜』『南海魚譜』などの地方動植物誌があります。これらの業績により、紀州藩の本草学の先覚者として、その功績は高く評価されています。
 小原桃洞は文政8年(1825)7月11日に和歌山で没しており、門人たちにより吹上の大恩寺に葬られました。

水軒堤防

〔種別〕史跡

 紀ノ川の南岸の西浜に築かれた南北約1.0kmに及ぶ江戸時代の堤防跡です。明治及び昭和の文献資料により、紀州藩初代藩主徳川頼宣の命を受け、寛永年間(1624~1644)に朝比奈段右衛門が工事を担当し、13年の歳月をかけ完成したものとされていましたが、その後の道路拡張に伴う発掘調査により、18世紀後半の築造であったことが判明しました。また、堤の北端部・南端部の確認調査により、堤防は海側に石堤、陸側に土堤を併せもつ非常に強固な構造体であり、高さは石堤が約4m、土堤が約5mで、基底部の幅は推定で24m以上にも及ぶことが考えられます。
 築造の背景として、堤防東部の地域が、古代以来の名勝である和歌の浦と一体となった「吹上」の地であり、藩主が遊覧したり別邸を築いたりした西浜の地であることから、防潮とともに景観保持の目的であった可能性も想定されています。なお、道路拡張時の発掘調査により確認された石堤は、上部の6段まで(全体で16段のうち)が、南海水軒線の水軒駅跡地の水軒公園に移築保存されています。

〔写真〕堤防、石堤の南端部分、移築された石堤

雑賀崎台場

〔種別〕史跡

 江戸時代末期、外国船の来航に対処するために、紀州藩により沿岸部に築かれた土塁・石垣・砲台などの海防施設が台場です。雑賀崎台場は、紀伊水道に突出した通称「トンガの鼻」と呼ばれる岬の先端部に築かれた台場跡で、調査により周囲には土塁がめぐり、土塁の下には石垣が構築されている状況が判明しました。土塁に囲まれた中央部には、逆V字状の石積み遺構が確認されています。 この石積み遺構に関しては、現在のところ類例がなく、詳細は不明ですが、砲台に関連するなんらかの施設であるものと考えられます。台場の築造時期は、構築の際の整地土から出土した遺物より、18世紀後半から19世紀前半と考えられます。

〔写真〕遠景(北から望む。手前が台場)、土塁や石垣、逆V字状の石積み遺構

四箇郷一里塚

〔種別〕史跡

 四箇郷一里塚は和歌山市新在家にある近世の交通遺跡です。 一里塚は和歌山城の外堀(現在の市堀川)にかかる京橋を起点として、1里(約4km)ごとに旅行者に移動距離を示す目印として街道の両脇につくられたものです。四箇郷一里塚は京橋から出発して最初に通る一里塚です。現在も南塚と北塚が良好に残っています。
 史跡指定時の松は、北塚が昭和54年(1979)、南塚が昭和59年(1984)に現在の松に植え替えられました。 抜き取った松の年輪を調べた結果、江戸時代にも何度か植え替えられていたことが判明しています。

〔写真〕現在の一里塚、昭和40年(1965)頃の一里塚

平松家住宅(主屋、長屋門)

 安政3年(1856)に建てられた木造平屋建て、瓦葺きの建物です。上方街道に面しており、入母屋造本瓦葺の大規模な構えの農家です。正面中央に入母屋屋根の式台玄関があり、北西には仏間と茶室を設け、茶室は北側水路に迫り出しており、優れた農村景観を形成しています。重厚な長屋門は和歌山城下から移築したと伝わっています。

〔写真〕主屋、外観、長屋門