園部円山古墳

 園部円山古墳は、鳴滝川の東岸、和泉山脈から南へ派生する尾根の先端に位置する全長9.55mの両袖式横穴式石室をもつ復元直径25mの円墳で、6世紀中頃に築かれたとみられます。天王塚古墳(岩橋千塚古墳群)をはじめとして紀ノ川下流域の古墳の多くが扁平な緑色片岩を用いた石室であるのに対して、園部円山古墳の石室は砂岩の巨石を用いていることに大きな特長があります。一方で、玄門部にやや幅の狭い空間を作り出していることや玄門部の上部に緑色片岩の板材を梁のように架けること、玄室内から羨道を通って石室外に抜ける排水溝をもつことなど、石室の構造は岩橋千塚古墳群の横穴式石室を意識していることが伺えます。
 中世に石室が再利用されたため、石室内から出土した副葬品の残りは悪いですが、金銅装圭頭太刀の柄頭や刀装具、馬具、耳環等が出土しており、本来は豪華な副葬品を伴っていたと考えられます。昭和60年(1985)に和歌山市指定文化財(史跡)になっています

〔写真〕玄室部、羨道部、圭頭太刀柄頭、馬具(杏葉)

奥出古墳

 奥出古墳は、鳴滝古墳群から北北東の和泉山地から派生した尾根に立地する径25.0mの円墳です。封土の流出が著しく、石室の天井石がすでに露出しています。埋葬施設は南南東に開口する横穴式石室で、石室の規模は玄室部分の長さが3.25m、幅1.77m、高さ約2.3m、羨道部分の長さ2.93m、幅0.9mです。石室の壁には和泉砂岩の巨石を用い、玄室の下方よりも上方に大型の石が使われています。
 園部円山古墳(和歌山市指定文化財)とともに和泉砂岩の巨石を用いた横穴式石室として注目されます。現在、石室は埋め戻されています。

〔写真〕横穴式石室奥壁、玄門、羨道

山東22号墳

 山東22号墳は岩橋千塚古墳群の南端部に位置する直径26~28mの6世紀後半代に築造された円墳です。石室は、北西方向に入り口のある両袖式の横穴式石室で、玄室の規模は長さ約4.3m、幅約2.35mで岩橋千塚古墳群の円墳・方墳のなかでは最大級の規模のものになります。中世以前に盗掘されていましたが、土器のほか玉類、耳環、太刀、馬具など豪華な副葬品が出土しています。これらの特徴から、山東22号墳は岩橋千塚古墳群の中でも有力な人物の墓であると考えられます。

〔写真〕横穴式石室、石室玄門部、太刀の鍔(象嵌)、玉類

和歌山城跡

 和歌山城跡は、和歌山市和歌山城周辺に所在する近世の武家屋敷である三の丸を中心とした遺跡です。
 和歌山城の南東部を調査した折には、江戸時代末期の『和歌山城下町図』に描かれた百軒長屋の敷地東辺を区画する溝を、紀州徳川家家老水野家の屋敷地跡の調査では、礎石立建物や基礎石組、石組溝等の屋敷地に関係する遺構群を検出しています。
 和歌山地方・家庭・簡易裁判所の新庁舎建設にあたり実施された発掘調査では、屋敷地境界施設や井戸・石組枡・暗渠などの水周り施設が確認されています。また、その下層では古墳時代や鎌倉時代の遺物のほか、室町時代の土坑墓や粘土採掘穴とみられる遺構がみつかっており、和歌山城築城以前にも人間の活動痕跡が認められます。

〔写真〕水野家家紋軒瓦、水野家屋敷地、水野家屋敷地出土遺物

音浦遺跡

 音浦遺跡は和歌山市の東部の花山西裾の微高地に広がる東西約0.1km、南北約0.4kmの遺跡です。遺跡の範囲は現時点では明確ではありませんが、過去の調査では古墳時代の竪穴住居や掘立柱建物、溝等が検出されており、集落遺跡であると考えられます。確認された竪穴住居14棟のうち7基に造り付けの竃があること、韓式系土器が多く出土するなど注目されます。
 また、音浦遺跡には現在の紀ノ川下流域南岸の一帯を灌漑する宮井用水が通っており、音浦分水工で3方に分流されています。音浦遺跡の発掘調査でも現在の宮井用水に関連する可能性のある水路が確認されています。
 住居址およびその周辺の遺構からは滑石製の臼玉や有孔円盤などの祭祀遺物が多数発見されているため、宮井用水や花山古墳群を背景とした祭祀遺跡としての側面も備えています。

〔写真〕竪穴住居(古墳時代)、調査区全景、土器

鳴神Ⅴ遺跡

 鳴神Ⅴ遺跡は、和歌山市東部の花山西裾の微高地に広がる東西約0.5km、南北約0.4kmの遺跡です。古墳時代の小区画水田のほか、古墳時代初頭~後期にかけての円墳・方墳、中世の井戸などが検出されています。これらの古墳は、西側に広がる秋月遺跡で確認された古墳群とともに平野部に形成された古墳群です。鳴神Ⅴ遺跡で確認された古墳からは馬歯が出土しており注目されます。

〔写真〕水田(古墳時代)、古墳(古墳時代)、井戸(鎌倉時代)

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

鳴神Ⅱ遺跡

 鳴神Ⅱ遺跡は、岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地に接する紀ノ川南岸の沖積地に広がる東西約0.3km、南北約0.4kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代末~平安時代にかけての溝や奈良時代の井戸などが検出されています。特に、溝は弥生時代末に開削され、古墳時代中期に整備し、以後奈良時代~平安時代まで使用されたことが出土遺物から伺うことができ、今日の宮井用水同様に用水路として機能していたものと考えられます。なお、溝からは建築部材と考えられる屋根型の木製品や扉、斧柄や砧、杵、腰掛状木製品などが出土しています。

〔写真〕井戸(奈良時代)、腰掛状木製品、屋根形木製品

神前遺跡

 神前遺跡は、紀ノ川南岸の福飯ヶ峯の西側に広がる沖積低地に立地する、東西約0.5km、南北約0.7kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代前期末~中期初頭にかけての水田やそれに伴う水路、古墳時代前期の竪穴建物や土坑など居住域に関係する遺構群や水田に伴う水路、室町時代~江戸時代にかけての大溝や土坑など屋敷跡の一部が確認されています。特に、2010年度に行われた調査では、溝から青銅製の鈴(古墳時代)が出土し注目されました。

〔写真〕水路(弥生~古墳時代)、青銅製鈴(古墳時代)

明楽古墳群

 明楽古墳群は明楽山の西側の尾根上にほぼ一列に造られた14基の円墳からなる古墳群です。尾根のなかほどにある2号墳は横穴式石室と竪穴式石室の二つの埋葬施設をもっています。横穴式石室の玄室の規模は長さ1.35m、幅1.82mと玄室の幅が長さよりも広いT字形をしており、須恵器や鉄製武器・武具、玉類、馬具が副葬されていました。
 また、5号墳と6号墳は比較的残りが良く、小倉1号墳と同様の結晶片岩の割石積みで、両袖部に巨石を立てた横穴式石室をもち、石室内からは副葬されていた須恵器、土師器、金環、鉄製武器・武具等が出土しています。

〔写真〕6号墳馬具・刀鍔、5号墳須恵器、2号墳鉄鏃、2号墳玉類