東国山古墳群

 東国山古墳群は5基の円墳からなる古墳群で、そのうち2基が発掘されています。1号墳は直径約15.0m、高さ4.0mの円墳で、墳丘の中央部に長さ3.5m、幅0.95m、高さ0.91mの結晶片岩を割石積みした竪穴式石室があり、石室内には木棺に納められた壮年の男女一組が葬られていました。東枕の遺体の頭部周辺から碧玉製の管玉や小玉が、西枕の遺体の左腰にあたる部分から刀子が出土していることから、東枕の遺体は女性、西枕の遺体は男性であると考えられます。なお、1号墳にはほかに須恵器や土師器、鉄鏃などの武器等が副葬されていました。特に石室の東端では須恵器の大型壷をはじめとする土器が、西端では坏蓋や提瓶等の土器が総数100点以上が集中して出土しました。
 1号墳の南に築かれた2号墳は、墳丘の北半分の封土が除去されていたため、石室が露出していました。径20.0m、高さ4.0mの円墳で、墳頂から2.5m下に床面があり、長さ3.5m、幅0.9mの割石積みの竪穴式石室をもっています。石室内からは鉄鏃の破片が出土したのみですが、1号墳と同規模の古墳であることから本来は豊富な副葬品をもっていたと考えられます。

〔写真〕1号墳出土須恵器、1号墳出土短頸壷、1号墳出土坏身、1号墳出土坏蓋

男子立像埴輪(力士埴輪)

 井辺八幡山古墳から出土した力士埴輪は近畿地方を代表する大型の埴輪(総高113.5cm)です。ふんどしを締め、両足は長く、手が前方に伸びていることから、相撲の取り組み姿勢を表現しているものと思われます。なお、本資料は坊主状の頭部に鉢巻の立体表現を持つ点が特徴で、特に鉢巻の後ろ側の端部が円筒状のつくりとなっており、飾りを表現していると考えられます。また、顔面の鼻の両側には刺青の表現もみられます。

車駕之古址古墳出土遺物

〔種別〕考古資料

 車駕之古址古墳は5世紀後半頃に築かれた和歌山県内最大級の前方後円墳です。発掘調査により装身具類や埴輪が出土しています。そのなかでも金製勾玉は現在のところ、日本列島では唯一の出土例です。 この勾玉と類似する資料が朝鮮半島の新羅の皇南大塚、金冠塚、瑞鳳塚、伽耶地域の玉田古墳群M4号墳などから出土しています。そのため、車駕之古址古墳の金製勾玉は朝鮮半島よりもち込まれた可能性が指摘されています。

津秦Ⅱ遺跡

 紀ノ川の南岸に位置する遺跡で、標高3.2m前後の沖積低地に弥生時代から中世の遺構が形成されています。遺跡の南端で行われた調査により、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の水田やそれに伴う水路、鎌倉時代の土坑や溝からなる居住域が確認されています。

〔写真〕水路と水田(古墳時代)

友田町遺跡

 紀ノ川の南岸で和歌山駅の西側に広がる遺跡です。標高2.8m前後の沖積低地に古墳時代の集落が営まれています。発掘調査により古墳時代前期の竪穴建物が1棟、古墳時代後期の掘立柱建物が5棟確認されています。掘立柱建物のなかには布堀の掘方をもつものも含まれています。また、古墳時代後期の溝からは、滑石製勾玉と剣形模造品、結晶片岩製の有孔円板など、祭祀関係遺物が出土しており注目されます。

〔写真〕掘立柱建物、滑石製品など

岩橋遺跡

 紀ノ川の南岸で岩橋千塚古墳群の北側に位置する遺跡です。標高7m前後の沖積低地に古墳時代初頭から中世にかけての集落が営まれています。発掘調査により古墳時代初頭の竪穴建物、奈良時代から平安時代の木組井戸、中世の井戸など各時期の遺構が確認されています。ただし、これらの遺構は各時期とも密集して確認されないため、それほど大きな集落ではなかったと考えられます。

〔写真〕竪穴建物、井戸(平安時代)

井辺遺跡

 紀ノ川の南岸の井辺・神前・津秦にまたがる遺跡です。標高3m前後の沖積低地に縄文時代晩期から弥生時代前期と弥生時代後期から古墳時代前期の集落が営まれています。特に古墳時代初頭から前期には、福飯ヶ峯の北西部にあたる丘陵の裾部を中心に、前方後方形周溝墓を含む墓域と多数の竪穴住居からなる居住域が確認されています。
 また、同じ時期にかなり広範囲にわたって水路が堀削されて、それに伴う水田や畑も確認されており、遺跡内が古墳時代に入ってから大規模に開発されている状況が判明しつつあります。

〔写真〕前方後方形周溝墓(古墳時代)、水田(古墳時代)、畠(古墳時代)、土器棺(縄文時代)

菖蒲谷遺跡

 和田川の南岸の井戸にある独立丘陵上に位置する遺跡です。弥生時代中期と古墳時代中期の遺構が確認されています。特に弥生時代中期ごろには標高11~26mの丘陵斜面地に6基の台状墓が築かれます。これらの募域に対応する集落域の存在はまだ明らかではありませんが、千石山遺跡や馬場遺跡で弥生時代中期末の土器が出土しており、菖蒲谷遺跡が位置する丘陵裾部を中心に展開していた可能性も想定されます。

〔写真〕台状墓

伊太祁曽神社古墳群

 式内社である伊太祁曽神社の境内にある古墳群です。標高約20mの丘陵上に3基の円墳が築かれています。3基の古墳のうち1号墳のみ調査により内容が判明しています。
 1号墳は直径16m、高さ5mの規模で、内部主体は西側に開口する横穴式石室で石棚・石梁があります。横穴式石室は全長5.6m、玄室長2.8m、幅2.1m、高さ3.4mの規模で、玄室内には棺台が設置されています。

〔写真〕1号墳外観、横穴式石室、棺台、石梁

太田・黒田遺跡

 紀ノ川の南岸の和歌山駅の東側に広がる遺跡で、標高3~4mの沖積地に弥生時代から江戸時代までの集落が営まれています。特に弥生時代には前期に水田遺構や竪穴住居を伴う集落が形成され、中期後半には集落域が拡大し、和歌山平野のなかで拠点的な集落として機能します。集落内で石舌を内蔵する銅鐸(和歌山県指定文化財)が出土した遺跡としても著名です。
 また、奈良時代には刳り抜きの井戸から和同開珎42枚・万年通宝4枚(和歌山市指定文化財)が出土しました。銭貨の出土例としては全国的にも多い事例です。
 室町時代の太田・黒田遺跡の南半部は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めの際に、水攻めが行われたとされる太田城跡と推定されています。これまでの調査で太田城に関連するとみられる大規模な堀状の遺構が確認されています。

〔写真〕竪穴建物(弥生時代)、銅鐸、弥生土器、井戸(飛鳥時代)