千手観音立像

 紀三井寺の本堂厨子(ずし)前に立つお前立ちの千手観音立像です。
 頭部をやや小さく表し、一見すらりとした細身ですが、体躯(たいく)の抑揚(よくよう)を強調しないブロック状の体型で、眦(まなじり)の切れ上がった意志的な風貌(ふうぼう)や裙(くん)の折り返し部の衣の端(はし)が細かく揺(ゆ)らぐ表現など、南北朝時代の作風をよく示しています。特に像表面を赤味がかった染料で染め、檀像(だんぞう)風に仕上げる檀色の技法を用いていることは特徴的で、秘龕仏(ひがんぶつ)千手観音像が素木(しらき)仕上げであることを踏まえた選択とみられます。
 令和元年から3年度に実施された「紀三井寺悉皆(しっかい)調査」により確認された、和歌山市域では類例の少ない貴重な南北朝時代(14世紀半ば)の等身大の作例です。

十王図

 一幅につき一尊を描いた十王図で、画面中央に衝立(ついたて)を背にして坐る十王をひときわ大きく配し、その左右に男女の冥官(めいかん)(冥界の役人)を、中央下部に邏卒(らそつ)等によって裁かれる死者を、下部に六道図(りくどうず)(六道(天人道(てんにんどう)・人道・修羅道(しゅらどう)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・地獄道)の有様を描いた図)を描いたものです。本来は十二幅一具または十幅一具であったもののうち、「閻羅王(えんらおう)」「都市王」「五道転輪王(ごづてんりんおう)(以下、転輪王)」の三幅のみが現存しています。静嘉堂文庫美術館(せいかどうぶんこびじゅつかん)所蔵の「十王図(以下、静嘉堂文庫本)」(14世紀 明 重要美術品)を祖本(そほん)として製作されたものと想定されますが、六道図や追善(ついぜん)供養者(くようしゃ)、「老ノ坂(おいのさか)」図(人間が生まれてから死ぬまでの段階を表した図)などが付け加えられており、唐物(からもの)(中国・半島作)の十王図の図像が転化を遂げ、死後の六道巡歴を主題とする六道十王図となっていく過程を示している作例と考えられます。
また、西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)の中核寺院である総持寺に浄土曼荼羅である「当麻曼荼羅(たいままんだら)」とともに伝世していることからも、「当麻曼荼羅」とともに絵解きの際に使われたものとも考えられます。その意味では「転輪王」幅の「老ノ坂」図の図様が同じく絵解きの道具立てであった「熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじっかいまんだら)」の成立に影響を与えたものと考えられます。
(写真)閻羅王、都市王、五道転輪王

西庄Ⅱ遺跡

 和歌山平野の北西部、和泉山脈のふもとに展開する遺跡で、西は平ノ下遺跡、東は木ノ本Ⅰ遺跡に接しています。昭和51年(1976)から昭和53年(1978)に発掘調査され、弥生時代~古墳時代の竪穴住居、鎌倉~室町時代の屋敷跡などがみつかっています。中世には東西に走る大溝と南北に走る大溝により区画された3つの敷地のなかに掘立柱建物、井戸、柵、溝、土坑などが展開しています。特に北西区の区画には、東西25m、南北15mの石組基壇と雨落ち溝をもつ掘立柱建物とそれに接するように井戸が存在していました。
 出土遺物には中国製青磁、白磁、染付のほか、土師器、瓦器、瓦質土器、備前焼、常滑焼、滑石製鍋、軽石製浮子、土錘、漆塗椀、滑石製品(温石)などがあります。

〔写真〕屋敷地の様子(区画溝、掘立柱建物、井戸)、石組井戸(中世)

護国院(紀三井寺)楼門

 寺伝によれば室町時代末期の永正6年(1509)に建立され、永禄2年(1559)に修理が加えられたとされます。その後、何度も修理を受け、細部には安土桃山時代以降の様式も見受けられます。入母屋造、本瓦葺の建物で、下階中央部に扉がなく、開放されています。間口三間、奥行二間の規模をもち、切石の礎石上に円柱を建て、正面両脇には仁王像を安置しています。

護国院(紀三井寺)鐘楼

 桁行三間、梁間二間、入母屋造で本瓦葺の建物です。天正16年(1588)に安部六太郎により再建されたといわれ、細部の様式も安土桃山時代の特徴をよく示しています。下層に切石の基壇を築き、野面石の上に4本の角柱を建て、合せ目にさらに細い板を重ねる目板張りの袴腰をつけています。上層の柱は正面三間、側面二間で柱間には縦連子窓をはめ、軒の破風板には蕪懸魚をつけています。本堂への参道の右手山側にあり、全体に軽快な感じのする建物です。

〔写真〕護国院(紀三井寺)鐘楼

和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

沖ノ島北方海底遺跡

 沖ノ島北方海底遺跡は紀淡海峡に浮かぶ地ノ島・虎島・沖ノ島・神島の4島からなる友ヶ島のうちの沖ノ島の北側の海域を指します。この海域では古くから網漁業に伴って陶磁器類が引き上げられており、韓国全羅南道新安郡智島面防築里の沖合で1975年に発見された「新安沈船」と同様の交易船が沈没しているのではないかと考えられています。
 「海揚がり」の陶磁器とも称されるこれらの陶磁器類は中国龍泉窯で焼かれた青磁碗や香炉などの室町時代の日明貿易に伴うものと、九州の唐津や伊万里の港から大坂や和歌山城下町等の大消費地に運ばれた江戸時代の交易に伴う肥前系陶磁器に分けることができます。
 このことから、室町時代の日明貿易に伴う沈没船以外に少なくとも江戸時代の沈没船が存在すると考えられています。

〔写真〕青磁碗(鎬蓮弁文)、褐釉四耳壺、青磁香炉、青磁碗(雷文帯)

木ノ本の獅子舞

〔種別〕無形民俗

 木ノ本の獅子舞は、木ノ本にある木ノ本八幡宮の祭礼に奉納されるもので、500年の伝統があると伝わります。木ノ本地区は、古くは今から1300年前に奈良の大安寺により開拓され、その後東大寺の寺領となり、八幡宮が一帯の鎮守となったとされています。青年二人が雄獅子の胴衣に入って演ずる、勇壮活発な獅子舞です。特に地上5mに渡した2本の青竹の上を舞うダンジリ上の舞いが有名です。獅子が谷底に蹴落とした我が子の這い上がってくる姿を待ちながら、谷底をのぞく様子を演出しています。

〔写真〕ダンジリ上の舞い、木ノ本地区内での舞い

護国院(紀三井寺)多宝塔

 寺伝によれば、以前にあった塔が嘉吉元年(1441)の風害により倒壊したが、文安6年・宝徳元年(1449)に再建の勧進が行われているので、この頃建立されたものとみられます。下層が方形、上層が円形の平面形をもつニ重の塔で、最上部の相輪は鋳鉄製で、四隅に鎖を張り風鐸を釣っています。上層部は直径2.45mで、白漆喰などでまんじゅう形に固めた亀腹の上に円形に高欄をめぐらしています。本瓦葺の三間多宝塔で各種の絵様、彫刻、須弥壇とも室町時代中期の様式手法を示しています。

〔写真〕護国院(紀三井寺)多宝塔、二階部分

坂田遺跡

 坂田遺跡は、神武天皇の兄である彦五瀬命の墓と伝わる竈山神社古墳がある竈山神社の北方に位置し、周辺の独立丘陵上には和田古墳群、三田古墳群、坂田地蔵山古墳群が分布します。県道建設にともなう平成21年(2009)の発掘調査では、古墳時代の掘立柱建物群が発見され、もとは古墳の副葬品であったとみられる琴柱形石製品が出土しました。またその北に位置する宅地開発にともなう平成26年(2014)の発掘調査では、北側の丘陵の南で埋没古墳の周溝が発見され、埴輪が出土しました。中世には多数の柱穴と井戸が確認されており、集落が存在していた可能性が想定されています。

〔写真〕平成21年(2009)調査全景、琴柱形石製品