和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

上野廃寺跡

 上野廃寺は、紀ノ川流域の古代寺院跡のなかでも代表的な寺院跡の一つとして、昭和26年(1951)に国の史跡に指定されました。昭和42年(1967)と昭和59年(1984)に行われた発掘調査の結果、寺院の創建は7世紀後半で、10世紀後半まで存続した薬師寺式の伽藍配置をもつ寺院であったことがわかりました。
 出土した蓮華文軒丸瓦や唐草文軒平瓦は、奈良県の法隆寺西院伽藍で用いられた瓦の影響を強く受けた秀麗な文様です。また、忍冬文をレリーフした隅木蓋瓦(建物の隅木の端を覆う瓦)は、他に類例がない特徴的なものです。

〔写真〕西塔跡、講堂跡、軒瓦、隅木蓋瓦

高井遺跡

 高井遺跡は直川に位置し、東と西を谷にはさまれた段丘上に立地します。直川小学校内の発掘調査では、古墳時代前期と平安~鎌倉時代の集落跡が発見されました。平安~鎌倉時代では、多数の掘立柱建物があり、土師器、須恵器、黒色土器のほかに緑釉・灰釉陶器、中国製白磁が出土し、土葬墓から北宋銭15枚以上が出土しました。高井遺跡の周辺に古代の南海道が想定されており、それに関係する集落の可能性があります。

〔写真〕掘立柱建物、銭貨出土状況、銭貨

平井遺跡

 大谷古墳の西方約500m、丘陵裾に位置する弥生~鎌倉時代の遺跡です。第二阪和国道建設に伴う発掘調査により古墳時代の横穴式石室、埴輪窯、奈良~平安時代の掘立柱建物や井戸が発見されました。特に2基発見された埴輪窯は県内での初めての調査例であり、窯内部からは円筒埴輪、形象埴輪(家形、馬形、人物、双脚輪状文、胡籙形)が出土し、埴輪の特徴から6世紀代に築かれたとみられます。今後、埴輪の分析により、供給先や工人の実態に迫ることができる重要遺跡です。

〔写真〕2号埴輪窯、横穴式石室、掘立柱建物

吉礼砂羅谷窯跡

 砂羅谷窯跡は、岩橋千塚古墳群の天王塚古墳が所在する天王塚山より、南に派生する尾根のひとつの西斜面の標高36mの地点にあります。現在確認されている須恵器の窯跡は5基で、出土した坏身・坏蓋・高坏・短頸壺・甕などの須恵器からみて、操業の中心時期は古墳時代後期から奈良時代にかけてと考えられています。また、そのうちのひとつである6世紀前半段階の窯では、焚き口に近い燃焼部とみられるところから埴輪片が出土しており、須恵器の他に埴輪も焼成していたとみられます。
 周辺には、岩橋千塚古墳群があり、古墳時代後期に須恵器や埴輪の需要拡大に伴い造営規模が拡大した須恵器窯跡と考えられ、造営開始の時期は、古墳時代中期に遡る可能性が指摘されています。

和田遺跡

 和田遺跡は、市域南部の和田川の南岸に位置し、周辺一帯に河南条里の地割りが残る水田地帯です。県道建設にともなう平成26年(2014)からの発掘調査では、和田川により形成された微高地上で、弥生~古墳時代の井戸、溝、竪穴建物、掘立柱建物、古代~中世の井戸などが発見されました。弥生時代~古墳時代では、微高地から落ち込む地点に大量の土器が廃棄された状態でみつかりました。中世の井戸では、底で土師器の皿に白石をつめた状態でみつかり、井戸の廃棄にともなう祭祀の跡と考えられています。

〔写真〕落ち込み状遺構(土器出土状況)、中世の井戸

上野廃寺跡

〔種別〕史跡

 上野廃寺は南に紀の川をのぞみ、北に三十六人山を背負う紀ノ川右岸の台地に立地します。昭和42年(1967)と59年(1984)に行われた発掘調査の結果、東西両塔をもつ薬師寺式の伽藍配置の寺院であったことが解っています。
 この上野廃寺跡からは奈良時代前期を中心とした瓦が出土していますが、特筆すべきものとして、金銅製風鐸や堂塔の隅木の先端を覆う箱形の瓦製品である隅木蓋瓦が出土しています。隅木蓋瓦の飾板には扇形のパルメット文(忍冬文)に輪形を巡らしたものを主文とし、その周縁には左右対称にS字形の文様を配置しています。

〔写真〕隅木蓋瓦、西塔、軒瓦、講堂

山口廃寺跡

 〔種別〕史跡

 山口廃寺跡は大阪街道(雄山越)と淡路街道との交点付近の紀ノ川右岸に位置します。山口廃寺の蛇紋岩製の大礎石(最大長2.42m、幅・高さ1.2m余)はすでに破壊されていますが、大塔の心柱を受けた痕跡(直径18cm、深さ21.5cm)があります。
 この他には礎石などの遺構は確認されていませんが、周辺からは中房に七個の蓮子を配し、周縁部には鋸歯文を巡らした八葉副弁蓮華文軒丸瓦をはじめとする奈良時代前期の瓦が出土しているだけでなく、「堂垣内」、「門口」など寺院に関係する地名が残っていることから古代には規模の大きな寺院が建っていたものと思われます。

〔写真〕大塔跡、軒丸瓦

府中Ⅳ遺跡

 紀ノ川下流域の北岸の標高24~26mの段丘上に立地する集落遺跡です。数次にわたる調査で、弥生時代~鎌倉時代の建物遺構、溝、土坑などが確認されています。時期の判明するものとしては弥生時代後期の円形竪穴建物7棟、古墳時代前期の方形プランの竪穴建物17棟、奈良時代の掘立柱建物2棟、鎌倉時代の掘立柱建物2棟などがあります。特に、弥生時代終末~古墳時代初頭頃に集落としてのまとまりがあり、竪穴建物のなかには炉周辺の土を盛りあげた炉堤やベッド状遺構をもつものや一辺が8.6mもある大型の方形プランのものも含まれています。
 出土遺物には、弥生土器、土師器、砂岩製砥石、叩石、古墳時代前期の刀子とみられる鉄器片、奈良時代の厚さ7cmの塼、製塩土器などがあります。

〔写真〕竪穴建物群(古墳時代前期)、全景

加太遺跡

 東西に走る和泉山脈の西端が紀淡海峡に落ち込むあたりの当地域は、漁業に従事する海部集団の中心地として、古くから知られていました。平城京跡で発見された木簡によると、「海部郡加太郷」と記され、塩を提供していたことが判明しています。堤川河口の砂丘上を中心に南北約500m、東西約550mの範囲に遺物の散布がみられます。採集資料によると、縄文時代から江戸時代まで各時代の遺物が豊富にみられ、継続的に人々の暮らしが行われていたことがわかります。遺物の中で比較的資料が多いのは古墳時代~奈良時代の土師器、須恵器、土錘、製塩土器などで、当該時期に漁労や製塩などの生業をおこなっていたものとみられます。

〔写真〕須恵器壺