山口御殿跡

 和歌山市の北東部、市立山口小学校・幼稚園敷地内に位置します。中世末期頃に当地域の有力者であった易井喜内氏の旧宅跡に、紀州入りした徳川氏が山口御殿と呼ばれる別邸を建築したとされます。
 江戸時代後期に記された『紀伊国名所図会』などによると、遠侍(武士の詰め所)や書院などの建物のほか、御供部屋・御台所などがあり、周囲には堀が築かれ、江戸時代の参勤交代の際に、歴代藩主や幕府の使者の休憩所として利用されたとみられます。学校敷地内の発掘調査では、山口御殿に関係するとみられる堀の一部や井戸、礎石、埋桶、土塀などが見つかっています。
 山口御殿は、明治2年(1869)の廃藩置県によって、建物は順次、取り壊されましたが、明治6年(1873)に山口小学校が開校した際に、遠侍1棟が校舎として使われました。現在、山口御殿に由来するとみられる石橋や鬼瓦が山口小学校に残されています。

〔写真〕土塀の基礎(2条の石列部分)、鬼瓦、石橋

和佐山城跡

 高積山の南につらなる城ヶ峯(和佐山)の山頂に築かれた、南北朝~安土桃山時代とみられる山城跡です。南北朝時代を舞台とした軍記物語である『太平記』の「紀州龍門山軍事」に、南朝方の四条中納言隆俊が、塩屋伊勢守とともに紀の川市の最初ヶ峰に布陣し、北朝方の畠山義深がこれを討つために、和佐山に布陣したとあります。
 城跡は、東西30m、南北20mの曲輪で、南端に10m四方の櫓台があります。さらに東側に二段の曲輪を備え、北と西に畝状の竪堀があります。堀切をはさんだ西側の峰には、周囲を土塁で囲んだ跡があります。天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めの際にも使用されたとも伝わります。

〔写真〕遠景、井戸

城山遺跡

 紀ノ川北岸の和泉山脈から派生する尾根先端部に立地する山城跡です。主郭部分は周囲の集落より30mの高所に位置します。地元では「擂鉢山」と呼ばれ、雨乞いを行った場所であったといわれていましたが、発掘調査の結果、方形の土塁がめぐり、その南側に四本柱の門礎石と考えられる遺構や内側に建物の痕跡が検出されなかったこと、また円錐形の鉛塊(インゴット)が出土したことなどから、織豊時代の特徴を持つ陣城であった可能性が高いと考えられます。

〔写真〕城山遺跡、インゴット

中野遺跡

 紀ノ川下流北岸の標高1m前後に位置し、和泉山脈から派生する土入川により形成された扇状地末端部の平野域に位置し、東西200m、南北250mの範囲を測る遺跡です。
 発掘調査の結果、室町時代の大溝などの遺構や輸入陶磁器・備前焼大甕など多量の遺物を確認したことから、当地に勢力をもった雑賀衆の城跡であると推定されています。

〔写真〕溝(室町時代)、常滑焼甕

和歌山城跡

 和歌山城跡は、和歌山市和歌山城周辺に所在する近世の武家屋敷である三の丸を中心とした遺跡です。
 和歌山城の南東部を調査した折には、江戸時代末期の『和歌山城下町図』に描かれた百軒長屋の敷地東辺を区画する溝を、紀州徳川家家老水野家の屋敷地跡の調査では、礎石立建物や基礎石組、石組溝等の屋敷地に関係する遺構群を検出しています。
 和歌山地方・家庭・簡易裁判所の新庁舎建設にあたり実施された発掘調査では、屋敷地境界施設や井戸・石組枡・暗渠などの水周り施設が確認されています。また、その下層では古墳時代や鎌倉時代の遺物のほか、室町時代の土坑墓や粘土採掘穴とみられる遺構がみつかっており、和歌山城築城以前にも人間の活動痕跡が認められます。

〔写真〕水野家家紋軒瓦、水野家屋敷地、水野家屋敷地出土遺物

太田・黒田遺跡

 紀ノ川の南岸の和歌山駅の東側に広がる遺跡で、標高3~4mの沖積地に弥生時代から江戸時代までの集落が営まれています。特に弥生時代には前期に水田遺構や竪穴住居を伴う集落が形成され、中期後半には集落域が拡大し、和歌山平野のなかで拠点的な集落として機能します。集落内で石舌を内蔵する銅鐸(和歌山県指定文化財)が出土した遺跡としても著名です。
 また、奈良時代には刳り抜きの井戸から和同開珎42枚・万年通宝4枚(和歌山市指定文化財)が出土しました。銭貨の出土例としては全国的にも多い事例です。
 室町時代の太田・黒田遺跡の南半部は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めの際に、水攻めが行われたとされる太田城跡と推定されています。これまでの調査で太田城に関連するとみられる大規模な堀状の遺構が確認されています。

〔写真〕竪穴建物(弥生時代)、銅鐸、弥生土器、井戸(飛鳥時代)