沖ノ島北方海底遺跡

 沖ノ島北方海底遺跡は紀淡海峡に浮かぶ地ノ島・虎島・沖ノ島・神島の4島からなる友ヶ島のうちの沖ノ島の北側の海域を指します。この海域では古くから網漁業に伴って陶磁器類が引き上げられており、韓国全羅南道新安郡智島面防築里の沖合で1975年に発見された「新安沈船」と同様の交易船が沈没しているのではないかと考えられています。
 「海揚がり」の陶磁器とも称されるこれらの陶磁器類は中国龍泉窯で焼かれた青磁碗や香炉などの室町時代の日明貿易に伴うものと、九州の唐津や伊万里の港から大坂や和歌山城下町等の大消費地に運ばれた江戸時代の交易に伴う肥前系陶磁器に分けることができます。
 このことから、室町時代の日明貿易に伴う沈没船以外に少なくとも江戸時代の沈没船が存在すると考えられています。

〔写真〕青磁碗(鎬蓮弁文)、褐釉四耳壺、青磁香炉、青磁碗(雷文帯)

太田城水攻め堤跡

 紀ノ川南岸の出水に現在もその残存部分が残っています。天正13年(1585)におこなわれた秀吉の太田城水攻めの際に築かれた堤防の跡で、周囲を標高2~3mの平野に取り囲まれており、あたかも海に浮かぶ小島のような景観です。
 遺跡の中心に位置する出水堤の測量調査がおこなわれており、その結果出水堤は基底部の幅31.0m、長さ45.0m、高さ5.0mを測る大規模なものであったことが判明しました。太田城跡から約500mの距離を隔て側面を向けており、頂上は標高7.1mを測り、周辺で最も標高が高い場所です。

鳴滝遺跡

 紀ノ川北岸の鳴滝古墳群の所在する尾根の一角で5世紀前半から中頃の大規模倉庫群が発見されました。一辺が7~10mもの大規模掘立柱建物が7棟、軒を並べて整然と立ち並んでいました。出土遺物の大半が初期須恵器の大甕であり、物資の貯蔵施設であったことを物語っています。古墳時代の倉庫規模としては、大阪市法円坂遺跡の例とともに、国内では屈指の規模をもっており、当時、紀ノ川河口域が重要な地域であったことを示しています。

〔写真〕倉庫群

旧聖社境内和鏡出土地

 和歌山市黒岩の街道を見下ろす丘陵状にある聖御前社の跡地から和鏡1面が採集されています。和鏡(面径109mm、胎厚1mm、縁高7mm、縁幅2mm)は下部に流水、左に水辺に遊ぶ2羽の鳥を右から上部にかけて菊花を配する鈕や界圏を無視し鏡背を一枚のキャンパスとした文様構成をしています。文様の箆押しが浅く伸びやかであること、縁幅が細く外傾していることなどから、平安時代(12世紀前半)の和鏡であると考えられます。なお、採集状況から経塚に埋納された副納品の一部など、何らかの祭祀に伴った鏡である可能性が高いものと思われます。

〔写真〕菊花双鳥鏡

高積山遺跡

 高積山遺跡は昭和3年(1928)に発掘された埋納銭遺構です。埋納坑は深さ約60cmで、平瓦を敷いた底から約45cmまで銅銭が積まれていました。銅銭は藁に通した緡の状態であったと考えられます。なお、これらの銅銭の所在は現在不明ですが、総数10,470枚で、その大部分が宋銭であったことが分かっています。

〔写真〕高積山遠景

鳴神Ⅱ遺跡

 鳴神Ⅱ遺跡は、岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地に接する紀ノ川南岸の沖積地に広がる東西約0.3km、南北約0.4kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代末~平安時代にかけての溝や奈良時代の井戸などが検出されています。特に、溝は弥生時代末に開削され、古墳時代中期に整備し、以後奈良時代~平安時代まで使用されたことが出土遺物から伺うことができ、今日の宮井用水同様に用水路として機能していたものと考えられます。なお、溝からは建築部材と考えられる屋根型の木製品や扉、斧柄や砧、杵、腰掛状木製品などが出土しています。

〔写真〕井戸(奈良時代)、腰掛状木製品、屋根形木製品