湊御殿

湊御殿について

湊御殿の変遷

湊御殿外観

湊御殿は、紀州藩二代藩主徳川光貞(みつさだ・1626年~1705年)の隠居所として元禄11年(1698)に造営されました。隠居した藩主が生活するために、湊御殿の敷地内にはたくさんの建物が建てられ、その中の一つに平成18年(2006)に移築された湊御殿(奥御殿)がありました。湊御殿があった場所は、和歌山城より南西方向、現在の和歌山市湊御殿1丁目から3丁目にあたります。「湊御殿」という地名は、この建物があったことに由来しています。
湊御殿は何度か火事になり多くの建物が焼失し、その都度再建されました。移築された湊御殿(奥御殿)の建築年代については、移築工事中に小屋束(こやづか)から「天保四年四月十三日 改」と墨書された部材が発見されたことから、十一代藩主徳川斉順(なりゆき・1801年~1846年)が、焼失した湊御殿の再建を天保3年(1832)に命じ、同5年(1834)に完成させたものと考えられています。

再建された湊御殿は、江戸屋敷を模して広壮善美を尽くしており、嘉永6年(1853)十三代藩主徳川慶福(よしとみ・1846年~1866年 のちの十四代将軍家茂)の治世においては、政務・住居を和歌山城に移されるまで藩の政庁として重要な役割を担う場所となりました。また、平成18年(2006)の移築工事の過程で、部屋の天井隅にある油煙抜き(ゆえんぬき)にも「竹之御間北御入側」・「溜之御間」、小屋束に「波の御廊下 ぬニ □込敷桁上」等の墨書が発見され、それぞれ「竹之間」・「溜之間」・「波の廊下」と呼ばれた部屋の存在が確認でき、これらの部屋の焼け残った部材をこの建物に再利用していたこともわかりました。

明治になり、湊御殿にあった多くの建物は取り壊されましたが、いくつかの建物は寺院や個人の建物として移築されました。この建物は明治初年に湊御殿から和歌浦東へ移築された後、現在の地に移築されました。建物は書院造りで、上の間(床の間のある部屋)・次の間・入側(いりがわ)廊下などがあり、数奇屋(すきや)風に土庇(つちびさし)や濡れ縁(ぬれえん)を付け、外界との調和を考えたものと思われます。柱(4寸7分角)は上質の栂柾材(とがまさざい)を使用し、太く武骨な感じで、武家住宅としての力強さを感じさせます。また、長押(なげし)をめぐらし、欄間がつけられていることにより、格式ある建物であることがわかります。さらに、開口部を広くとり、当時は上の間からの景色を借景として取り込んだと思われる演出がなされています。

天井には鳥の子紙が貼られ、入側廊下の奥にある杉戸には、紀州藩御用絵師による杉戸絵が残されています。また、床の間の棚まわりには葵紋の金具が取り付けられ、紀州徳川家の建物であったことを今に伝えています。なお、床の間の裏側は、明治の移築以降に改造されています。

各部屋の天井や入側には、油煙抜きが設けられております。これは、夜間の内向きの対面や月見などの宴を催すために、主室と入側を開放し広い空間として用いたり、入側と濡れ縁を繋げ建具を開け放して使うためであったと考えられています。

このように、湊御殿(奥御殿)は、当時の上級武家の生活空間を今に体験できる貴重な建物となっています。