和佐の歴史風土
旧中筋家住宅がある和佐地区は、東に高積山(標高237メートル)がそびえ、北に紀ノ川が流れる豊かな穀倉地帯です。南の山地裾には縄文時代の禰宜貝塚、山地上には古墳時代の和佐古墳群などが立地します。平野部には古代の条里制に関係する地名が残り、早くから水田開発されたことがわかります。また熊野三山へ向かう熊野古道が南北にとおり、その沿道には川端王子・和佐王子などの王子社や、貴重な中世文書を伝える歓喜寺があります。
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中筋家の歴史
中筋家は、天正13年(1585)の羽柴秀吉による根来攻めを逃れ、根来からこの地に移ってきた文貞坊(ぶんていぼう)に始まるとされています。貞享4年(1687)、四代良政(よしまさ)が禰宜村の庄屋となり、寛延3年(1750)五代良重(よししげ)が和佐組の大庄屋となってから明治初年まで、六代にわたって大庄屋を務めました。現在の主屋を建てたのは八代良秘(よしやす)で、彼は紀州藩のお抱え絵師・野際白雪(のぎわはくせつ)に絵を学び、芸術・文化に造詣の深い人でした。そして十代良恭(よしやす)のときに現在の屋敷構えが整いました。