和歌山城天守閣銅鯱
詳細情報
読み仮名 | わかやまじょうてんしゅかくどうしゃち |
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指定 | 市指定文化財 美術工芸品 |
指定日 | 令和4年(2022)3月31日 |
時代 | 江戸時代 |
地区 | 吹上・高松地区 |
所在地/所有者等 | 一番丁/和歌山市(和歌山城整備企画課) |
和歌山城には嘉永(かえい)3年(1850)に再建された和歌山城天守閣(てんしゅかく)の鯱(しゃち)が断片も含め複数遺されています。これらの鯱は江戸時代後期の天守再建の記録である『御天守御普請覚帳(おてんしゅごふしんおぼえちょう)』(以下、『普請覚帳』)から、乾櫓(いぬいやぐら)(1対)および二の門続櫓(つづきやぐら)(1体)、二の門渡櫓(わたりやぐら)(1体)、小天守(こてんしゅ)(鼻および胴体の一部分のみ)の大棟(おおむね)に取り付けられていた鯱と考えられます。
なお『普請覚帳』には、10代藩主徳川治宝(はるとみ)の指示により大天守(だいてんしゅ)銅鯱が4尺5寸(約135cm)から6尺5寸(約197cm)へ規格変更され、それに伴い唐銅(からかね)(鋳造)から銅厚板(あついた)打出し(鍛造(たんぞう))への製作技法の変更が行われたことが記(しる)されています。また、「目の色を真鍮(しんちゅう)の台に金鍍金(きんめっき)をし、目玉を黒とすること」「緑青吹仕立(ろくしょうぶきしたて)」とすることといった指示も遺されており、二の門続櫓の銅鯱は往時の大天守の銅鯱を最も如実に想起することができます。このように、和歌山城天守閣銅鯱は各々が『普請覚帳』に記された法量(ほうりょう)、製作技法と一致しており、嘉永3年上棟(じょうとう)の天守閣の小天守、乾櫓、二の門続櫓、二の門渡櫓の大棟に取り付けられていたことが確実であるだけでなく、江戸時代後期の和歌山城を想起することができる数少ない確実な遺品であると言えます。
二の門続櫓銅鯱 二の門渡櫓銅鯱