野呂介石の墓
詳細情報
読み仮名 | のろかいせきのはか |
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指定 | 市指定文化財 史跡・名勝 |
指定日 | 昭和46年(1971)1月9日 |
時代 | 江戸時代 |
地区 | 吹上・高松地区 |
所在地/所有者等 | 吹上/譲念寺 |
〔種別〕史跡
野呂介石は、延享4年(1747)1月20日に町医である野呂方紹の第5子として生まれます。14歳で京都に出て黄檗僧鶴亭について墨竹を習います。一旦郷里に戻るものの再び上京し、21歳の時、池大雅について文人画の技法を修得します。また、同郷の桑山玉洲や大坂の文人・木村蒹葭堂とも交流を深めています。
寛政5年(1793)、47歳の時には紀州藩士に取り立てられ、以後、公務のかたわら熊野をはじめとする紀州各地を訪れて、豊かな自然や風景を題材に精力的な絵画制作を続けました。さらに、当時の日本の文人画家たちがあこがれた中国絵画からも多くを学びました。
介石は文政11年(1828)3月14日に82歳で亡くなり、吹上の護念寺に葬られました。