木本八幡宮文書

 永和3年(1377)から大永5年(1525)に、八幡宮に寄進された田畑の寄進状です。寄進者は木本西庄に居住した武士農民で、田畑は零細なものが多いが、中世後期の村落の事情、荘園の組織を知る上で貴重な資料です。明治24年(1891)に巻子本に仕立てられ、保存状態も良好です。

車駕之古址古墳

 紀ノ川の北岸の和泉山脈の南麓にある前方後円墳です。濠や外堤まで含めた全長は110~120mあり、和歌山県内で最大規模の古墳です。また、和歌山県内では珍しく、大阪府や奈良県にある大王墓とされる古墳と同じように周濠・造り出し・段築・葦石など本格的な施設をもっています。出土遺物には国内でも類例のない、朝鮮半島からもたらされた可能性の高い金製勾玉があります。古墳の築造時期は、出土した円筒埴輪より5世紀後半頃と考えられます。現在、この古墳は古墳公園として現地に保存されています。

〔写真〕古墳遠景、金製勾玉、くびれ部、円筒埴輪検出状況

友ヶ島要塞跡(第3砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 島内の最高所周辺に設置された第3砲台は友ヶ島内の最主力砲台で、砲座・弾薬庫・電灯所・看守衛舎などが残されています。

〔写真〕友ヶ島要塞 第3砲座跡

友ヶ島要塞跡(第1砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれ、友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置されました。
 明治23年(1890)に竣工した第1砲台は、加太・友ケ島地区では最初の砲台で、当時、最も優れていたフランス製カノン砲が備えられ、左右両翼に観測所が設置されていました。

友ヶ島要塞跡(第2砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。

友ヶ島要塞跡(第5砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。

友ヶ島要塞跡(第4砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 第3砲台に準じて整備された第4砲台跡には将校官舎と門柱が残されています。

〔写真〕友ヶ島要塞 第4砲台 将校官舎跡

深山要塞跡(男良谷砲台跡)

 明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
 深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治37年(1904)に海岸部に竣工した男良谷砲台には、カノン砲4門が設置され、隣接して海軍の水雷発射施設も築造されていました。

深山要塞跡(第2砲台跡)

 明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
 深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治26年(1893)竣工の第2砲台は、終戦後に爆破され、施設のほとんどは消滅しています。敷地の一角に、現在は休暇村施設が建てられ、弾薬庫や砲具庫として使用されたとみられる地下式掩蔽部が1基残されています。

深山要塞跡(第1砲台跡)

 明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
 深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。北西方向の砲撃を主任務とし、明治30年(1897)に竣工した深山第1砲台には、観測所や10門からなる砲台が設置されました。