絹本著色釈迦三尊像

〔種別〕絵画

 本図は六角框檀上の蓮華座に坐った釈迦如来(縦138.5cm、横63.0cm)、化仏のついた高い宝冠をいただき、左手に如意を持って獅子に騎乗した文殊菩薩(縦121.0cm、横48.5cm)、頭頂に三天人を乗せた白象に騎乗し、両手で蓮華の茎を持った普賢菩薩(縦121.0cm、横48.5cm)の三尊をそれぞれ独立した一幅に描き分けた作品です。三尊の着衣等には様々な裁金文様が施され、三鈷杵を並べた文様帯を付した光背や宝冠、装身具には金箔が用いられるなどきらびやかに荘厳されています。着衣の形式や両菩薩の図像に宋画の釈迦三尊像の影響が伺えるほか、釈迦と文殊の肉身に金泥を塗るのに対し、普賢の肉身は白く表すなど1セットの作品の中で表現に違いがみられます。

〔写真〕普賢菩薩坐像、釈迦如来坐像、文殊菩薩坐像

鳴滝古墳群

 紀ノ川の北岸で現在の鳴滝団地に存在した古墳群です。標高40mの丘陵上に10基の古墳が築造されていました。形がわかるものはいずれも円墳です。古墳群の中でもっとも古い古墳は5世紀後半に構築された6・7号墳で、終末期古墳である10号墳をのぞくと、時期の明らかなものはいずれも6世紀後半の古墳です。そのため、古墳群の中心時期は6世紀後半と考えられます。1号墳は岩橋千塚古墳群と共通する横穴式石室の形態で、枝石を組み合わせた石槨を設けていました。出土品に単鳳式の環頭太刀柄頭や飾覆、棺金具があり、注目されます。

〔写真〕1号墳の横穴式石室内石槨、石廊、玄門部、棺金具出土状況

総持寺玄関

 総持寺は紀ノ川の北岸の梶取集落の中に広大な寺地を占めます。この寺は鎌倉時代から南北朝時代の守護大名である赤松則村の孫明秀によって宝徳2年(1450)に開かれたと伝えられています。 寛文年間(1661~1672)には禅林寺・光明寺両末寺となって、紀伊・和泉両国に八十八ヶ寺の末寺を有するようになり、西山浄土宗檀林三ヶ寺の1つに数えられるなど名刹として現在に至っています。
 玄関は本堂と庫裏の中間に建っており、両建物と廊下で結ばれています。本堂や釈迦堂と違い、木柄が細く華奢な建物で、黄檗宗建物風の礎盤を用い、軸部は長押・貫・台輪で固め、台輪より上の妻飾の小壁部分を菊水や極楽鳥などで埋め尽くし、はなやかに飾っています。屋根は本瓦葺きで正面のみ銅板葺きとなっています。束に打たれた法華経奉納函に寛政5年(1793)寛仙上人が大覚寺宮の寄付を受けて造営をはじめ、同10年(1798)に完成、工匠は若山内大工町の広屋藤蔵と記されています。

総持寺釈迦堂

 総持寺は紀ノ川の北岸の梶取集落の中に広大な寺地を占めています。この寺は鎌倉時代から南北朝時代の守護大名である赤松則村の孫明秀によって宝徳2年(1450)に開かれたと伝えられています。寛文年間(1661~1672)には禅林寺・光明寺両末寺となり、紀伊・和泉両国に八十八ヶ寺の末寺を有するようになり、西山浄土宗檀林三ヶ寺の1つに数えられるなど名刹として現在に至っています。
 釈迦堂は、本堂と廊でつながれており、本堂と玄関をつなぐ太鼓橋をくぐるとちょうど釈迦堂の正面にくる配置になっています。ほぼ方七間の規模の大きな建物で、正面一間通を吹放の広縁とし、その奥は大きく前後に二分されます。前半分の桁行七間・梁間三間は広大な外陣として内部に柱を一本も立てない構造です。後半分は両側面に広縁をとり、残りを三列に割って、中央を仏間があります。骨組みや意匠の面では、広縁の正面柱通りと仏間正面に大虹梁を架ける以外は長押で軸部を固めて、外回りに船肘木を用いる以外は組み物その他の装飾部材を一切使わず、簡素なつくりです。正面扉金具に天保4年(1833)年の刻銘があり、その頃の完成と考えられます。

雨が谷古墳群

 紀ノ川の北岸の和泉山脈から南にのびる尾根上に分布する古墳群です。古墳群には円墳5基と方墳1基の計6基の古墳があり、そのうち3基が調査されています。
 調査された古墳(1~3号墳)のうち形の分かる1・2号墳は円墳で、5世紀後半から6世紀の前半にかけて1号墳→3号墳→2号墳の順番で築造されていたことが分かっています。
 現在、調査された古墳のうち、1号墳は大谷公園の南側に保存されています。

〔写真〕1号墳現況、1号墳出土須恵器、2号墳横穴式石室、3号墳出土埴輪