平井Ⅱ遺跡

 初期須恵器を多量に出土した楠見遺跡の北西約300mの丘陵裾に位置し、近年、新たに発見された遺跡です。第二阪和国道の建設工事に伴い発掘調査が実施され、古墳時代の竪穴遺構、土坑、掘立柱建物、柵列、中世の井戸などが検出されました。
 遺跡からは古墳時代の多数の初期須恵器が出土し、組紐文や竹管文が施された破片や、肩部に乳状突起を付けた壺もしくは甕の破片が出土し、古墳時代中期の楠見遺跡の初期須恵器と共通する点があり、注目されています。

〔写真〕初期須恵器出土状況、初期須恵器(器台)

平井遺跡

 大谷古墳の西方約500m、丘陵裾に位置する弥生~鎌倉時代の遺跡です。第二阪和国道建設に伴う発掘調査により古墳時代の横穴式石室、埴輪窯、奈良~平安時代の掘立柱建物や井戸が発見されました。特に2基発見された埴輪窯は県内での初めての調査例であり、窯内部からは円筒埴輪、形象埴輪(家形、馬形、人物、双脚輪状文、胡籙形)が出土し、埴輪の特徴から6世紀代に築かれたとみられます。今後、埴輪の分析により、供給先や工人の実態に迫ることができる重要遺跡です。

〔写真〕2号埴輪窯、横穴式石室、掘立柱建物

鳴滝遺跡

 紀ノ川北岸の鳴滝古墳群の所在する尾根の一角で5世紀前半から中頃の大規模倉庫群が発見されました。一辺が7~10mもの大規模掘立柱建物が7棟、軒を並べて整然と立ち並んでいました。出土遺物の大半が初期須恵器の大甕であり、物資の貯蔵施設であったことを物語っています。古墳時代の倉庫規模としては、大阪市法円坂遺跡の例とともに、国内では屈指の規模をもっており、当時、紀ノ川河口域が重要な地域であったことを示しています。

〔写真〕倉庫群

楠見遺跡

 昭和42年(1967)の楠見小学校校舎増築工事の際に多くの土器が発見され、昭和44年(1969)に小学校中庭で発掘調査が実施されました。出土した土器は古墳時代の須恵器に似ていますが国内で類例が求められないことより、以前は朝鮮半島からもたらされた陶質土器の可能性が高いとみられ「楠見式」と呼ばれました。壺・甕・器台・高杯などに多用されたシャープな突線に特徴があり、特にヘラ・櫛により飾られた器台が有名です。朝鮮半島の洛東江中下流の加耶地域との類似性が指摘され、渡来系の人々により製作された初期須恵器とみられます。

〔写真〕出土した土器類、土器出土状況、器台出土状況

晒山古墳群

 大谷古墳がある背見山の支尾根に分布する古墳群で、10基が確認されています。土取り工事により消滅の危機にさらされ、昭和43年(1968)から関西大学考古学研究室により緊急に発掘調査が行われました。2号墳と10号墳(背見山古墳)が前方後円墳で、その他は円墳と考えられています。1号墳は粘土槨、2号墳は木棺直葬や土坑墓、3号墳は礫槨、4号・10号墳は横穴式石室を主体とするなど、埋葬施設はさまざまで、築造時期も5世紀前半から6世紀後半まで時期幅がありますが、なかでも大谷古墳や背見山古墳を中心として、5世紀末から6世紀前半に集中しています。現在、6・7号墳が現地に保存されています。

〔写真〕1号墳粘土槨、1号墳玉類出土状況(勾玉・管玉・臼玉)、2号墳前方部土坑墓の須恵器出土状況、3号墳礫槨

高芝1号墳

 和泉山脈から南へ伸びる尾根上に築かれた古墳で、直径約8mの円墳です。和歌山大学移転工事の際に、発掘調査され、和泉砂岩の石材を使用した横穴式石室が確認されました。残された側壁と石材の抜き取り穴の形態からみて、玄室は長さ約2.4m、幅約1.25mで、幅の狭い羨道が取り付く形態であったとみられます。出土品には須恵器(平瓶、杯蓋、杯身)、耳環(2点)があり、須恵器は7世紀中頃~8世紀初頭の年代が想定されます。紀ノ川北岸域の終末期の古墳例であり、盛土をした後に和歌山大学グランド南側に復元整備されています。

〔写真〕横穴式石室、須恵器出土状況、耳環出土状況

紀州三浦家文書

〔種別〕書跡

 和歌山大学紀州経済史文化史研究所に所蔵されている「三浦家文書」は、紀州徳川藩の家老であった三浦家に代々伝わる490点の古文書です。その内容は、慶長13年(1608)から明治30年(1897)代に及ぶもので、知行目録、藩御用書状留・日誌・覚帳、知行所支配、家政役覚帳、家譜伝記、書状控、冠婚葬祭・献立等、学芸・文芸の8項目に分類できます。これらの文書は、質量ともに紀州藩史料としても、家老文書としても大変貴重なものです。

〔写真〕知行加増目録(家康朱印状)、家乗(寛永9年~)、御用番留帳

円光大師御絵伝

〔種別〕絵画

 円光大師とは浄土宗の開祖法然のことです。18幅(各85.6cm×178.9cm)からなる本図は法然の生誕から入寂までを描いた絵伝で、総持寺第四十二世住持弁才によって本堂再建・釈迦堂建立のための勧進を目的として製作されたものです。
 勧進の趣旨を記した第1幅の裏を除く各軸の裏には勧進者名が列記されており、その総数は約2,100名にも及びます。なお、本図は絵解きのために掛け幅の形態で制作されていますが、原本の詞書を伴う絵巻の名残をとどめています。

〔写真〕円光大師御絵伝第1幅

西山国師御絵伝

〔種別〕絵画

 西山国師とは法然の弟子で西山派の祖となった証空のことです。本図は証空の誕生から入寂までの生涯を描いた絵伝で、総持寺第42世住持弁才が総持寺に入寺する前に刊行した「西山鑑知国師絵伝」(全5巻)の1~4巻を貼り合わせて4幅(88.3cm×193.5cm)に仕立て、彩色を施したものです。木版本の絵伝を貼り合わせてその上に彩色するという全国でも類例のない特異な手法によるものです。

〔写真〕西山国師御絵伝第2幅

絹本著色当麻曼荼羅図

〔種別〕絵画

 室町時代の宝徳2年(1450)に開基された総持寺は浄土宗西山派の寺院です。絵解きの寺とも呼ばれる総持寺では当麻曼荼羅をはじめとする絵を用いて人々に開祖である法然の極楽往生の教えを広めていました。当麻曼荼羅とは奈良の当麻寺に伝わる中将姫伝説のある根本曼荼羅の図像に基づいて作られた阿弥陀如来が住むという極楽浄土の様子を描いた浄土図のことです。