阿弥陀来迎図

総持寺(そうじじ)に伝来した阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)です。阿弥陀如来の住む極楽浄土に功徳(くどく)を積むことで往生できるとする「浄土信仰」は源信(942~1017)により平安時代中期に広まったもので、「阿弥陀来迎図」は阿弥陀如来が死者を迎えに来た場面を描いたものです。和歌山市内に遺る数少ない鎌倉時代の絵画資料であるだけでなく、豊臣秀吉の弟である羽柴秀長の家臣で、和歌山城代を務めた桑山重晴が母の菩提を弔うために高野山遍照院(へんじょういん)から譲り受け、総持寺に寄進したことを記した寄進状が伴っており、伝来経緯を知ることができる点でも重要です。

(写真)阿弥陀来迎図、桑山重晴寄進状

十王図

 一幅につき一尊を描いた十王図で、画面中央に衝立(ついたて)を背にして坐る十王をひときわ大きく配し、その左右に男女の冥官(めいかん)(冥界の役人)を、中央下部に邏卒(らそつ)等によって裁かれる死者を、下部に六道図(りくどうず)(六道(天人道(てんにんどう)・人道・修羅道(しゅらどう)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・地獄道)の有様を描いた図)を描いたものです。本来は十二幅一具または十幅一具であったもののうち、「閻羅王(えんらおう)」「都市王」「五道転輪王(ごづてんりんおう)(以下、転輪王)」の三幅のみが現存しています。静嘉堂文庫美術館(せいかどうぶんこびじゅつかん)所蔵の「十王図(以下、静嘉堂文庫本)」(14世紀 明 重要美術品)を祖本(そほん)として製作されたものと想定されますが、六道図や追善(ついぜん)供養者(くようしゃ)、「老ノ坂(おいのさか)」図(人間が生まれてから死ぬまでの段階を表した図)などが付け加えられており、唐物(からもの)(中国・半島作)の十王図の図像が転化を遂げ、死後の六道巡歴を主題とする六道十王図となっていく過程を示している作例と考えられます。
また、西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)の中核寺院である総持寺に浄土曼荼羅である「当麻曼荼羅(たいままんだら)」とともに伝世していることからも、「当麻曼荼羅」とともに絵解きの際に使われたものとも考えられます。その意味では「転輪王」幅の「老ノ坂」図の図様が同じく絵解きの道具立てであった「熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじっかいまんだら)」の成立に影響を与えたものと考えられます。
(写真)閻羅王、都市王、五道転輪王

伊久比売神社の樟樹

〔種別〕天然記念物

 伊久比売神社は市姫大明神とも呼ばれています。楠見地区の産土神で「延喜式」神名帳に載る伊久比売神社に比定され、「紀伊国神名帳」に「従四位上伊久比売神」とあります。伊久比神社は古くから現在地にあり、楠見一帯の氏神的な神社であったことが推定されていますが、続風土記によると実際に伊久比売神社とされたのは徳川頼宣が入国して以後と考えられています。
 樟樹は本殿の両脇にあり、西側の樟樹Aが幹囲7.8m、根囲17.2m、樹高25m、樹冠直径33m、東側の樟樹Bが幹囲6.4m、根囲18.0m、樹高25m、樹冠直径30mの規模を測る大樹です。いずれも7~8mの高さで3~4支幹にわかれ、それより四方八方に枝が分かれ境内を広く覆っています。
 これらの樟樹は現在も神木として祀られており、樹勢も良好で、樹齢は推定300~400年です。また、江戸時代後期に描かれた『紀伊国名所図会』にもこれらの樟樹が神木として描かれているため、江戸時代の後期にはすでに神木として祀られていたことがわかります。

〔写真〕全景、樟樹A、樟樹B

大谷古墳

 〔種別〕史跡

 大谷古墳は和泉山脈の南麓から派出した尾根の突端を利用して造られた前方後円墳です。墳丘の大部分が自然の地形を利用しており、山の尾根の突端から平野を見下ろすようなところに立地しています。
 大谷古墳の主体部は石室を設けずに石棺を直接埋納する形式で、石棺の形式や副葬品から5世紀末から6世紀初頭頃に造営されたと考えられています。
 石棺内や主体部からは馬甲をはじめとする馬具や垂飾付耳飾など、韓半島南部の影響の強いものが多く出土したことからも、この大谷古墳に埋葬された人物が大和朝廷や韓半島とも深い関係をもっていたと考えられます。

総持寺鐘楼

 紀ノ川北岸の梶取集落内に位置する総持寺は、宝徳2年(1450)に開かれた浄土宗西山派の寺院です。寛文年間(1661~1672)に禅林寺・光明寺の末寺となりますが、紀伊・和泉八十八ヶ寺の末寺を有し、同派檀林(学問寺)七ヶ寺の1つに数えられる名刹です。本堂・総門、釈迦堂・玄関・開山堂・鐘楼などいずれも江戸時代末までに建立されたもので、学問寺としての機能をもつ寺格に相応しく、近世寺院建築を理解する上で重要です。
 鐘楼は、やや規模の大きな方一間、四方内転びの柱をもつ建物です。梵鐘に寛永15年(1638)の銘があり、虹梁や木鼻の彫刻は細く流麗で17世紀の早い時期の様式を示しています。屋根は近年、葺き替えられていますが、木鼻は総門とよく似た意匠であり、当寺のなかでは総門と同様に17世紀中頃の最も古い建物とみられます。

総持寺総門

 紀ノ川北岸の梶取集落内に位置する総持寺は、宝徳2年(1450)に開かれた浄土宗西山派の寺院です。寛文年間(1661~1672)に禅林寺・光明寺の末寺となりますが、紀伊・和泉八十八ヶ寺の末寺を有し、同派檀林(学問寺)七ヶ寺の1つに数えられる名刹です。本堂・総門、釈迦堂・玄関・開山堂・鐘楼などいずれも江戸時代末までに建立されたもので、学問寺としての機能をもつ寺格に相応しく、近世寺院建築を理解する上で重要です。
 総門は、本堂などの大規模な建物群に見合った極めて大型の四脚門です。木鼻や拳鼻にやや複雑な彫刻がみられるものの、虹梁には若葉の彫刻がなく、17世紀中頃の意匠を示しています。当寺のなかでは、鐘楼とともに最も古い時期の建物とみられます。

総持寺本堂

 紀ノ川北岸の梶取集落内に位置する総持寺は、赤松則村の孫明秀により宝徳2年(1450)に開かれた浄土宗西山派の寺院です。16世紀中頃、御奈良天皇・正親町天皇の勅願寺となり、天正13年(1585)年の羽柴(豊臣)秀吉の兵火により焼かれましたが、直ちに復興されました。その後、寛文年間(1661~1672)に禅林寺・光明寺の末寺となりますが、紀伊・和泉八十八ヶ寺の末寺を有し、同派檀林(学問寺)七ヶ寺の1つに数えられる名刹です。本堂・総門、釈迦堂・玄関・開山堂・鐘楼などいずれも江戸時代末までに建立されたもので、学問寺としての機能をもつ寺格に相応しく、近世寺院建築を理解する上で重要です。
 本堂は大規模な建物で、方七間、縁通りまで入れると桁行九間、梁間八間相当の規模となります。内部は広大な空間の中に6本の円柱を二列に立て、これらを繋いで縦横に虹梁が架けられ、虹梁上に組物や蟇股を整然と配置しています。来迎柱頂部に安政元年(1854)の墨書があるので、造営もこの頃とみられますが、天井板に明治11年(1878)の墨書もあるので、完成はこの頃まで下るとみられます。

大谷古墳

 大谷古墳は和泉山脈の南麓から派出した尾根の突端を利用して造られた前方後円墳です。墳丘の大部分が自然の地形を利用しており、尾根の突端から平野を見下ろすようなところに立地しています。
 大谷古墳の主体部は石室を設けずに石棺を直接埋納する形式で、石棺の形式や副葬品から5世紀末から6世紀の初め頃に造営されたと考えられています。
 石棺内や主体部からは馬甲をはじめとする馬具や垂飾付耳飾など、朝鮮半島南部の影響の強いものが多く出土したことからも、この大谷古墳に埋葬された人物が大和朝廷や朝鮮半島とも深い関係を持っていたと考えられます。

〔写真〕遠景(西方より望む)、発見された当時の石棺、短甲と馬冑の出土状況

関口新心流柔術・居合術・剣術

 関口流は、江戸時代初めに開かれた古武道の一つで、現代の柔道・合気道・剣道・居合を含む総合武術です。関口家は流祖から代々、紀州藩の指南役をつとめました。全国に伝播した関口流の源流が、和歌山の関口新心流とされています。柔術・居合術・剣術あわせて89本の型が、現在も関口新心館道場に継承されています。全ての技が「揚柳」ともいう柔らかな力の使い方をもとに組み立てられています。

六堰続渠之碑(仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。船所の紀ノ川の川岸にあり、砂岩製で高さ162.5cmです。文化2年(1805)から文政5年(1822)にかけて行われた紀ノ川北岸の農業用水路の開削事業を顕彰したもので、天保5年(1834)に碑文が作成されています。