大谷山22号墳
大谷山22号墳は、全国でも有数の古墳群である岩橋千塚古墳群のなかで、大日山35号墳とならび最大級の前方後円墳の一つで、大谷山の山頂に立地します。昭和41年(1966)に横穴式石室の内部と墳丘の一部が発掘調査されました。
墳丘全長67mで南側のくびれ部に方形の造り出しがあります。発見された埴輪は、家、盾・大刀などの武具、力士や巫女などの人物をかたどったものがあります。
また後円部中央に南に開口する横穴式石室があり、石室全長7.8m、玄室幅2.5mです。大日山35号墳と前後する時期で、6世紀前半に築かれたと考えられています。
〔写真〕横穴式石室、須恵器、人物埴輪、馬具
将軍塚古墳
〔種別〕特別史跡
標高約150mの岩橋前山山頂付近にある前方後円墳です。埋葬施設は横穴式石室が前方部と後円部にそれぞれ造られています。後円部の横穴式石室は、羨道・玄室通廊部・玄室があり、玄室の床から天井までの高さは約4.3mあります。石室には石棚と石梁があり、羨道にも石梁があります。羨道は2枚の扉石で閉じられ、玄室よりも約20cm床が高く造られていました。玄室の床には川原石が敷きつめられ、床下には玄室に溜まった水を石室の外に排水できるように溝がめぐらされています。後円部石室からは銀環・玉類・鉄器・壷や高杯の一部が、前方部の石室からは須恵器や馬具の破片などが見つかっています。古墳の築造時期は6世紀後半と考えられます。
〔写真〕玄室の玄門部、石棚
将軍塚古墳
標高約150mの岩橋前山山頂付近にある前方後円墳です。埋葬施設は横穴式石室が前方部と後円部にそれぞれ造られています。後円部の横穴式石室は、羨道・玄室通廊部・玄室があり、玄室の床から天井までの高さは約4.3mあります。石室には石棚と石梁があり、羨道にも石梁があります。羨道は2枚の扉石で閉じられ、玄室よりも約20cm床が高く造られていました。玄室の床には川原石が敷きつめられ、床下には玄室に溜まった水を石室の外に排水できるように溝がめぐらされています。後円部石室からは銀環・玉類・鉄器・壺や高杯の一部が、前方部の石室からは須恵器や馬具の破片などが見つかっています。古墳の築造時期は6世紀後半と考えられます。
〔写真〕前壁と玄門閉塞石、玄室の石棚と棺材
天王塚古墳
岩橋山地の大日山と矢田峠のほぼ中間で、岩橋山地のなかでは最高所につくられた前方後円墳です。墳丘の規模は全長86m、高さ6mです。後円部は正円形に近く、段築が三段確認されています。埋葬施設は、後円部中央に横穴式石室があり南側に開口しています。天王塚古墳の石室は全長10.59mで、玄室の奥壁は5.9mと非常に高いことが特徴です。天王塚古墳は墳丘・石室ともに岩橋千塚古墳群のなかで最大規模を誇ります。出土遺物には須恵器、玉類、ガラス小玉、馬具、鉄鏃などがあります。古墳の時期は6世紀後半と考えられます。
〔写真〕墳丘と羨門、玄門と扉石、石棚と石梁、玉類
花山8号墳
花山古墳群の中央部に築かれた古墳です。墳丘の形状は帆立貝式の前方後円墳で、規模は全長52m、高さ4.6mです。埋葬施設は後円部と前方部に一箇所ずつあったと推定されています。前方部で確認された埋葬施設からは、鉄剣、滑石製管玉・勾玉・小玉、ガラス製小玉・臼玉などが出土しており、鉄剣の出土状況から3体の遺体が埋葬されていた可能性が指摘されています。古墳の築造時期は5世紀初頭と考えられます。
〔写真〕埋葬施設、鉄剣
花山6号墳
花山古墳群の中央部に築かれた古墳です。墳丘の形状はくびれ部の両側に方形の造り出しをもつ前方後円墳で、規模は全長49m、高さ4.5mです。墳丘の基底部に沿って埴輪列めぐり、前方部の端には葺石状の施設が確認されています。埋葬施設は後円部南側に開口する両袖式の横穴式石室である。造り出しからは、円筒埴輪・家形埴輪・人物埴輪・鶏形埴輪などが出土しています。古墳の築造時期は5世紀後半頃と考えられます。
〔写真〕埋葬施設、人物埴輪
有本銅鐸
〔種別〕考古資料
昭和40年(1965)、中学生によって紀ノ川の河原で偶然に掘り出された銅鐸です。銅鐸は、弥生時代を代表する祭祀道具です。銅鐸本体は、水による摩滅が観察されないので、意図的に埋められていたものと推定されています。高さ44.6cmで、身には水が流れるような文様(流水文)が描かれ、吊り手(鈕)や外側の鰭の部分、身の最下段には、三角形の文様を連続させる鋸歯文が描かれています。吊り手は薄く造られ、そこに文様帯が多く表現される扁平鈕式に分類されます。
〔写真〕全体、側面、内面
岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は、岩橋山地の前山地区を中心に、花山・大谷山・大日山・寺内・井辺・井辺前山の各地区の山地全体に広く分布する古墳群です。古墳の総数は700基を越え、史跡指定地内には400基ほどの古墳が所在します。
国内では最大規模の群集墳であり、結晶片岩を部材とする石梁や石棚を備えた特徴的な横穴式石室がみとめられることから、古墳群の一部が昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されています。
古墳の築造時期は古墳時代中期から後期で、そのなかでも6世紀後半が中心です。現在確認されている古墳は前方後円墳27基、方墳4基、その他が円墳です。これらの造墓集団としては、日本書紀や古事記に記されている古代豪族の紀氏が想定されています。
大谷山22号墳
〔種別〕特別史跡
大谷山22号墳は、全国でも有数の古墳群である岩橋千塚古墳群のなかで、大日山35号墳とならび最大級の前方後円墳の一つで、大谷山の山頂に立地します。昭和41年(1966)に横穴式石室の内部と墳丘の一部が発掘調査されました。
墳丘全長67mで南側のくびれ部に方形の造り出しがあります。発見された埴輪は、家、盾・大刀などの武具、力士や巫女などの人物を象ったものがあります。
また後円部中央に南に開口する横穴式石室があり、石室全長7.8m、玄室幅2.5mです。大日山35号墳と前後する時期で、6世紀前半に築かれたと考えられています。
〔写真〕横穴式石室、須恵器、人物埴輪、馬具
保田紙の製作用具
〔種別〕有形民俗
紀州藩初代藩主の徳川頼宣が製紙業の復興を命じ、有田郡の山保田組大庄屋の笠松左太夫が奈良の吉野から製紙技術を導入し、清水で盛行させたのが、保田紙の由来とされています。
紀州藩の御用紙として納められていた保田紙は、大正から昭和初期に最盛期をむかえ、400軒もの紙漉き屋が軒を連ねたといわれます。昭和28年(1953)の紀州大水害で有田川が氾濫して大きな打撃を受け、またその頃から和紙の需要が減少したことにより、製紙業が衰退しました。
近年は伝統技術として復興され、継承されています。保田紙の製作用具は、和歌山県立紀伊風土記の丘が、民具の調査で収集しました。