日高地域の地曳網漁用具及び和船

〔種別〕有形民俗

 地曳網とは、アミブネとよばれる和船2艘が、沖合いの同一の場所から網を置きながら左右に分かれて魚群を包囲し、両端の網を陸からひいて魚を獲る漁法です。近世初頭には漁法が確立し、紀伊半島の沿岸漁業の主要な位置を占め、特に日高郡周辺の漁村に多く分布していました。県立紀伊風土記の丘が平成11~12年(1999~2000)に、日高町産湯地区で地曳網漁の民具、和船、網元経営の文献がそろった一括資料として収集しました。

〔写真〕和船、漁業用具、漁業用具

くろがねもちの老樹

 下三毛にあるクロガネモチは、雄株で幹周り約4m、樹高約15mの大樹です。本幹は地上8mのあたりで5本の支幹にわかれ、各枝は分岐してよくのび、円く大きな樹冠を形成しています。かつては現在よりもっと大きな樹冠でしたが、昭和36年(1961)の第二室戸台風の時に、小枝をほとんど奪い去られるほどの損傷を受け、近年にようやく回復してきました。

ヒメコマツの名木

 満屋の宅地内にあるヒメコマツは、根元の幹周り1.5m、樹高4mで、樹齢推定250年以上の名木です。本幹は地上2mまでですが、そこから18本の枝が放射状にのびて長いもので7mに達し、広い庭園をヒメコマツ1株でおおいつくしています。ヒメコマツの巨樹としては幹周2mになるものが県下に数本見られますが、このヒメコマツほど広大で整然たる姿のものはなく、手入れが行きとどき、立派な枝ぶりです。

旧小早川梅吉氏住宅

 もと中津村(現在 日高川町)三佐にあった茅葺の農家で、東西に細長い敷地の東端に主屋があり、その西に納屋が建っていました。主屋は、建築様式や残された最も古い位牌の年代からみて18世紀後半頃に建てられたとみられます。桁行三間半、梁間三間強の小規模な建物で、入口を入ると土間(ニワ)が広がります。左側には、板の間のオモテやナンドと呼ばれる部屋が並び土間側は建具が無く開放的になっています。ナンドには仏壇とイロリがあります。建築形式に二間取りという古い形式を残している点が重要です。現在は県立紀伊風土記の丘に移築されています。

〔写真〕外観、ニワ、イマからニワを見る、小屋組

旧谷村まつ氏住宅

 この民家はもと有田川中流の旧清水町(現在 有田川町)に建てられていました。東西に長い敷地の西端に北面して主屋が建てられ、他には納屋があっただけです。主屋の建立年代は不明ですが、言い伝えや建築手法から18世紀後期と推定されます。屋内平面は三間取りで、この地域の民家のかなり古い形を継承していることがわかります。入口は二間通しの広い土間(ニワ)となり、土間の右側は、仏壇、物入れ付の10畳間(オモテ)があり、その奥にイロリのある板の間(ダイドコ)と板の間付の三畳間(ナンド)があり、土間には3連のカマドや農家ならではの脱穀用の唐臼が据えられています。現在は県立紀伊風土記の丘に移築されています。

〔写真〕外観、ニワ、ダイドコロ

旧中筋家住宅(主屋、表門、御成門、長屋蔵、北蔵、内蔵)

 和佐地区に所在する江戸時代の大庄屋の屋敷跡で、敷地は東西約40m、南北約57mと広大で周囲を土塀で囲まれています。屋敷地東側と南側には堀のような水路がめぐり、敷地東側は、熊野参詣道に面しています。主屋は嘉永5年(1852)の建築で、平面形は、一部三階建ての取り合い部を挟んで、西側に土間と台所、北側に20畳の大広間、東側に座敷部が配置されています。敷地内には指定された建物のほかにも、味噌部屋、茶室、人力車庫などがあります。平成12年(2000)から約10年間にわたって保存修理事業を行ない、平成22年(2010)8月から一般公開しています。

〔写真〕主屋、主屋表中庭、御成門、長屋蔵

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旧谷山家住宅(主屋・倉)

 元は、海南市下津町塩津の浜に建てられていた魚家で、棟札により寛延2年(1749)に建てられことがわかります。敷地の形に合わせて建てられたため、正面が背面よりも二間ほど広くなっています。屋根は切妻造、妻入りで、正面に庇がつき、主屋の西側には別棟の西倉が接続します。桁行二間半、梁間二間の西倉は、長い漁具を入れるため二階造りとせず、漁船の古板などを床に敷き詰めています。魚家として古いものに属し、全体の姿がよく保存され、建築年代の判明する大変貴重な例であります。現在、県立紀伊風土記の丘に移設されています。

〔写真〕外観、ダイドコとザシキ、二階ザシキ、倉

旧柳川家住宅(主屋・前蔵)

 元は、漆器の産地として名高い海南市黒江にあった建物で、文化4年(1807)に普請されたとされます。柳川家は代々平兵衛を名乗り、大庄屋をつとめた家柄でありました。本家は西面から入り、裏に座敷がのび、南面はもと入江で、船着場になっていたといわれます。外観は切妻造、本瓦葺で、一・二階とも前面は格子をはめています。この建物は、よく保存され、デザインも実用的ながら大変優れ、本県の町屋の代表的なものです。現在、県立紀伊風土記の丘に移設されています。

〔写真〕外観、ミセとニワ、ミセとミセオク、床構え

奥山田遺跡

 和歌山市東部の紀ノ川南岸の低丘陵に立地する遺跡で、宅地造成に伴い発掘調査がおこなわれました。発掘調査の結果、弥生時代の竪穴住居や横穴式石室を埋葬施設とする古墳時代後期の古墳群、平安~鎌倉時代の建物跡などが発見されました。
 発見された7基の古墳からは6~7世紀の須恵器、鉄器(鉄鏃、刀子)、耳環、玉類(ガラス玉、土玉)が出土し、金層ガラス玉の採集品もあります。平安~鎌倉時代には整然とした建物配置を示し、周辺には小鍛冶をおこなっていたとみられる鍛冶炉が3基確認されました。

〔写真〕竪穴住居(弥生時代)、横穴式石室(古墳時代)、掘立柱建物(平安~鎌倉時代)、6号墳出土遺物(古墳時代)

岩橋千塚古墳群

〔種別〕特別史跡

 岩橋千塚古墳群は、岩橋山地の前山地区を中心に、花山・大谷山・大日山・寺内・井辺・井辺前山の各地区の丘陵上全体に広く分布する古墳群です。古墳の総数は700基を越え、指定地内には400基ほどの古墳が所在します。
 国内では最大規模の群集墳であり、結晶片岩を部材とする石梁や石棚を備えた特徴的な横穴式石室がみとめられることから、古墳群の一部が昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されています。
 古墳の築造時期は古墳時代中期から後期で、そのなかでも6世紀後半が中心です。現在確認されている古墳は前方後円墳27基、方墳4基、その他が円墳です。これらの造墓集団としては、日本書紀や古事記に記されている古代豪族紀氏が想定されています。