井辺八幡山古墳

 福飯ヶ峰の北東に位置する八幡山の山頂にあり、井辺前山古墳群中で最大の前方後円墳です。昭和44年(1969)に同志社大学考古学研究室が発掘調査を行いました。墳丘の全長88m、後円部の径45mで、くびれ部には東西に方形の造り出しがあります。造り出しからは、円筒埴輪のほかに家、盾、武人、力士、巫女、馬、猪などをかたどった埴輪や、大甕、壺、器台などの須恵器が数多く発見されました。
 特に、顔に入墨がある力士(和歌山市指定文化財)、角杯を背負った男子、挂甲をまとった武人などの埴輪は注目されました。岩橋千塚古墳群の中で、大日山35号墳、大谷山22号墳についで6世紀前半~中葉につくられたと考えられています。

〔写真〕造り出し部の埴輪出土状況、須恵器(装飾付器台)、須恵器(耳杯)、角杯を背負う人物埴輪

井辺前山6号墳

 井辺前山6号墳は岩橋千塚古墳群の井辺前山地区に所在し、昭和41年(1966)、土取り工事にともない発掘調査が行われました。全長52m、後円部の径24mの前方後円墳で、南に開口する横穴式石室があります。石室の全長は6.69mで、馬具、玉類、須恵器、土師器などが出土しました。また、墳丘のくびれ部分から、朝鮮半島から伝来した陶質土器の破片が発見されたことが特徴的です。
 井辺前山6号墳は、井辺前山地区のなかで最大の前方後円墳である井辺八幡山古墳につづき、6世紀中頃につくられたと考えられています。

〔写真〕横穴式石室(羨道部)

大日山35号墳

 岩橋千塚古墳群中の前方後円墳で、岩橋山地の西端、標高141mの大日山山頂に位置します。平成15年(2003)度以降の整備事業に伴う発掘調査により、墳丘は三段構成で最下段は全長約105mの盾形の基壇で、その上に二段構成で墳長約86mの前方後円形の墳丘を構築していることが判明しました。後円部には、石棚をもつ岩橋型と呼ばれる横穴式石室が築かれています。くびれ部の東西の造り出しからは、調査により多量の形象埴輪が出土しました。
 形象埴輪には、家、人物(盛装男子、武人、力士、巫女など)、動物(馬、牛、猪、犬、水鳥、鳥)、器財(大刀、胡籙、蓋など)があり、なかでも頭部の両側に顔をもつ両面人物埴輪や翼を広げて飛翔する鳥形埴輪、矢をいれる道具を表現した胡籙形埴輪は全国初例のもので、注目されます。出土した須恵器や埴輪から6世紀前半頃に築かれた首長墓の一つとみられます。

〔写真〕横穴式石室、造り出し、鳥形埴輪、胡籙形埴輪

樫の大木

 永山にあるアラカシの老木は、嘗てここにあった稲荷神社の祠の神木とされていたものといわれています。二株が合成樹となったもので、結合部分の幹周り10mです。
 残念ながら太い方の支幹は、度々の台風で枝梢を失い、地上3mほどのところで折れて枯れています。細い方の支幹は、幹周り2m、樹高約10mで樹冠も整っています。

椿の巨樹

 木枕にあるヤブツバキの大木は、幹周り2mで、かつては地上2mのあたりから2本にわかれ、直径10mほどの樹冠を形成しており、全国屈指の大きさを誇るものでした。もとは椿油の原料として種子をとるために、畑の畦に植えられていたもので、豊年の年には100リットルもの種子がとれたといわれています。残念ながら、現在は本幹の空洞化が進み、樹勢が衰えています。

団七踊

〔種別〕無形民俗

団七踊は、岡崎地区一円に伝わる盆踊りです。江戸時代の寛永年間(1624~1645)、奥州白石郡坂戸村で悪代官志賀団七に殺された与太郎の娘が仇討ちを遂げた事件が江戸歌舞伎となり、たまたま紀州藩主に随行して江戸に上った岡崎の郷士がこれを観劇し、謡と踊りに仕組んで、郷土芸能となったものです。さらし踊り・なぎなた踊りは、父の仇討ちを遂げるために武道にはげむ様子を演じたものであり、その後に団七踊りの仇討ちの場面となります。

和歌山電鐵貴志川線伊太祈曽駅検査場他

 大正5年(1916)、山東軽便鐵道として大橋〜山東(現・伊太祈曽)間が開通した当時から使われている車両の検査場です。連続する木造のトラスが壮観で、伊太祈曽駅には、石積プラットホームや古レールを転用した上屋も登録されています。また、大池第一第二橋梁や交通センター前駅に隣接する西第二橋梁も登録されています。
 三社参りの参拝客や沿線の人々、また農産物の輸送など沿線の発展に大きな役割を果たした近代化遺産です。

〔写真〕検査場

坂田遺跡

 坂田遺跡は、神武天皇の兄である彦五瀬命の墓と伝わる竈山神社古墳がある竈山神社の北方に位置し、周辺の独立丘陵上には和田古墳群、三田古墳群、坂田地蔵山古墳群が分布します。県道建設にともなう平成21年(2009)の発掘調査では、古墳時代の掘立柱建物群が発見され、もとは古墳の副葬品であったとみられる琴柱形石製品が出土しました。またその北に位置する宅地開発にともなう平成26年(2014)の発掘調査では、北側の丘陵の南で埋没古墳の周溝が発見され、埴輪が出土しました。中世には多数の柱穴と井戸が確認されており、集落が存在していた可能性が想定されています。

〔写真〕平成21年(2009)調査全景、琴柱形石製品

城ノ前1号墳

 岩橋千塚古墳群から南約4kmに位置する標高約26mの低丘陵の南裾に築かれた古墳です。平成6年(1994)、工事中に横穴式石室の一部がみつかり、調査により幅1.9m、長さ2.6mの玄室と羨道の一部が残されているのが確認され、玄室床面には直径3~10cmの円礫が敷かれていました。玄室の側壁を片岩の小口積みで構築するのは、通常の岩橋型横穴式石室と同様ですが、奥壁に幅2.5m、高さ1.5m以上の片岩の巨石が使用されている点は異なっています。確認された周溝からみて、直径約14mの円墳であったものと推定され、出土品には須恵器、土師器、径8mm前後のガラス玉2点などがあり、6世紀末頃の築造と考えられます。

〔写真〕横穴式石室

大池遺跡

 和歌山市の東部、紀の川市・海南市と接する大池の岸部(標高約60~80m)に石器類の散布がみられ、旧石器時代~縄文時代の遺跡として知られます。採集品には、旧石器時代のナイフ形石器・角錐状石器、縄文時代の石錐、石鏃、敲石などがあり、木葉形尖頭器は縄文時代草創期前後の時期と推定されています。
 市内で最も古い時期の遺跡の一つで、地域名をつけて「山東大池遺跡」と呼ばれることもあります。

〔写真〕遠景、尖頭器・石鏃