山東22号墳

 山東22号墳は岩橋千塚古墳群の南端部に位置する直径26~28mの6世紀後半代に築造された円墳です。石室は、北西方向に入り口のある両袖式の横穴式石室で、玄室の規模は長さ約4.3m、幅約2.35mで岩橋千塚古墳群の円墳・方墳のなかでは最大級の規模のものになります。中世以前に盗掘されていましたが、土器のほか玉類、耳環、太刀、馬具など豪華な副葬品が出土しています。これらの特徴から、山東22号墳は岩橋千塚古墳群の中でも有力な人物の墓であると考えられます。

〔写真〕横穴式石室、石室玄門部、太刀の鍔(象嵌)、玉類

神前遺跡

 神前遺跡は、紀ノ川南岸の福飯ヶ峯の西側に広がる沖積低地に立地する、東西約0.5km、南北約0.7kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代前期末~中期初頭にかけての水田やそれに伴う水路、古墳時代前期の竪穴建物や土坑など居住域に関係する遺構群や水田に伴う水路、室町時代~江戸時代にかけての大溝や土坑など屋敷跡の一部が確認されています。特に、2010年度に行われた調査では、溝から青銅製の鈴(古墳時代)が出土し注目されました。

〔写真〕水路(弥生~古墳時代)、青銅製鈴(古墳時代)

朝日蔵骨器出土地

 紀ノ川の南岸、朝日の浄土寺境内の西側墓地周辺に埋納された蔵骨器です。蔵骨器には外容器が伴っており、直径0.8m、深さ0.4mの墓坑に倒置した状態で設置し、そのあと墓坑内を木炭で充墳している状況が確認されています。
 蔵骨器の時期は土器の特徴から8世紀末から9世紀初頭のものとみられます。蔵骨器は須恵器長頸壺の口縁部から頸部を打ち砕いたものを使用しており、和歌山県内でも類例をみないものであり注目されます。

〔写真〕蔵骨器

井辺遺跡

 紀ノ川の南岸の井辺・神前・津秦にまたがる遺跡です。標高3m前後の沖積低地に縄文時代晩期から弥生時代前期と弥生時代後期から古墳時代前期の集落が営まれています。特に古墳時代初頭から前期には、福飯ヶ峯の北西部にあたる丘陵の裾部を中心に、前方後方形周溝墓を含む墓域と多数の竪穴住居からなる居住域が確認されています。
 また、同じ時期にかなり広範囲にわたって水路が堀削されて、それに伴う水田や畑も確認されており、遺跡内が古墳時代に入ってから大規模に開発されている状況が判明しつつあります。

〔写真〕前方後方形周溝墓(古墳時代)、水田(古墳時代)、畠(古墳時代)、土器棺(縄文時代)

滝ヶ峯遺跡

 和歌山市薬勝寺と海南市多田にまたがり、標高112.6mの丘陵頂部から南側に少し下がった標高88m前後の緩斜面に展開する弥生時代の高地性遺跡です。調査の結果、弥生時代後期前半の竪穴建物3棟と少なくとも9m以上つづく空堀が確認されています。空堀内にはハイガイ・ハマグリ・ヒメタニシなどからなる貝層が形成され、貝層からは重要な遺物として貝輪や漢鏡が出土しています。

〔写真〕貝輪と漢鏡、弥生土器

菖蒲谷遺跡

 和田川の南岸の井戸にある独立丘陵上に位置する遺跡です。弥生時代中期と古墳時代中期の遺構が確認されています。特に弥生時代中期ごろには標高11~26mの丘陵斜面地に6基の台状墓が築かれます。これらの募域に対応する集落域の存在はまだ明らかではありませんが、千石山遺跡や馬場遺跡で弥生時代中期末の土器が出土しており、菖蒲谷遺跡が位置する丘陵裾部を中心に展開していた可能性も想定されます。

〔写真〕台状墓

伊太祁曽神社古墳群

 式内社である伊太祁曽神社の境内にある古墳群です。標高約20mの丘陵上に3基の円墳が築かれています。3基の古墳のうち1号墳のみ調査により内容が判明しています。
 1号墳は直径16m、高さ5mの規模で、内部主体は西側に開口する横穴式石室で石棚・石梁があります。横穴式石室は全長5.6m、玄室長2.8m、幅2.1m、高さ3.4mの規模で、玄室内には棺台が設置されています。

〔写真〕1号墳外観、横穴式石室、棺台、石梁

安原荘御舩山之碑 (仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。紀州藩内の24か所に建碑されたということですが、市内には5基が現存します。
 安原荘御舩山之碑は安原八幡神社に所蔵され、他の碑が石製であるのに対して木製であり、高さ186cm、幅72.8cmです。文化11年(1834)に碑文を作成しています。碑文の内容は、記紀に伝わる神功皇后の三韓征伐の後、皇后と誉田別尊(後の応神天皇)が忍熊王の難をさけ紀水門に到着し、津田浦(現在の安原小学校の辺り)に再上陸し頓宮を営んだ跡が、安原八幡神社であるとされています。