牡丹唐草文様金華山裂

〔種別〕工芸

 口覆とは茶の湯で「口切の茶事」などの際に用いる茶壺の口の部分を覆って飾るための四角い裂のことで、金蘭や緞子、錦等の格調高い裂が用いられます。東照宮には「華山」「楊柳」「小面」「佐藤」の銘を持つ四口の茶壺が伝えられており、それらはいずれも「呂宋壺」と呼ばれる唐物茶壺です。口覆は袷仕立てとなっており、いずれも表地は牡丹唐草文様金華山裂の同一の裂から裁断されたもので、裏地は「華山」と「小面」には赤地平絹、「楊柳」と「佐藤」には紫地平絹が用いられています。

〔写真〕華山、楊柳

紺地宝尽小紋小袖、藍地花菱唐草文散絞小袖、白地葵紋綾小袖

〔種別〕工芸

 紀州徳川家の初代藩主である頼宣が和歌浦に建立した東照宮には家康所用品が数多く遺されています。紺地宝尽小紋小袖は袷仕立てとした綿入れの小袖で、七宝や小槌、橘などの宝尽くし文様を藍による型染めであらわした平絹を表地にし、薄浅葱地の平絹を裏地にしたものです。藍地花菱唐草文散絞小袖は袷仕立てとした綿入れの小袖で、藍地の羽二重に絞染で大胆な花菱唐草文をあしらった裂を表地にし、薄浅葱地の平絹を裏地にしたもので、表地の絞染は安土桃山時代に流行した辻が花染の面影を残しています。白地葵紋綾小袖は袷仕立てで、胸前の2か所と袖後ろの2か所、背中の上部との計5か所に紋所風の葵紋を織りだした白地綾を表地に用い、白地の羽二重を裏地に用いています。なお、これらの類似品に当たるものが尾張徳川家や水戸徳川家にも家康所用品として伝来しています。

〔写真〕藍地花菱唐草文散絞小袖、紺地宝尽小紋小袖、白地葵紋綾小袖

徳川頼宣所用装束類

〔種別〕工芸

 徳川頼宣所用品として紀州徳川家に伝来していた装束類で、明治9年(1876)に徳川茂承により鎧櫃ごと甲冑類とともに南龍神社に奉納され、後に南龍神社と東照宮が合祀された際に東照宮の所蔵となりました。これらは縹糸威胴丸具足とともに頼宣が初陣である大坂冬の陣(1614年)で着用したものと伝えられていますが、いずれも子供用のやや小ぶりな寸法となっていることからも信憑性は高いものと思われます。なお、特筆すべき点として、陣羽織の高く立ち上がった襟や金モール紐の襟首留め、鎧下着の立襟や襟留の為のくるみ釦、脇から袖にかけての曲線裁断などに当時流行した南蛮服飾の影響が伺われます。

〔写真〕陣羽織

馬具

〔種別〕工芸

 東照宮には徳川家康所用品の馬具が伝来しています。黒漆塗鞍鐙と金貝蒔絵鞍鐙は頼宣が、海老蒔絵鞍鐙と桑木鞍は茂承が奉納したものです。なお、天正17年(1589)銘のある黒漆塗鞍鐙と天正16年(1588)銘のある金貝蒔絵鞍鐙には井関作の墨書があります。特に、金貝蒔絵鞍鐙は前輪・後輪の両面と居木上面・鐙に厚手の金・銀蒔絵で霰と雷文を施した豪華なものです。

〔写真〕金貝蒔絵鞍、海老蒔絵鐙

神輿

〔種別〕工芸

 屋蓋・身舎・基壇の構成からなる神輿(総高173.7cm、最大幅132.3cm、最大奥行291.8cm)で、明和4年(1767)に京都麩屋町の神輿師桒嶋作右衛門により制作されました。屋蓋は宝形造りで、露盤に鳳凰を立て、4面には近衛牡丹が金蒔絵で描かれています。身舎の上方には龍の彫刻の欄間を、正面には扉を配し、基壇の四方には鳥居と欄間を配し、2本の長柄が付けられています。
 中世以来、和歌神として尊崇された玉津島神社は江戸時代に復興を遂げると同時に、朝廷との結び付きも深まり天皇や公家による和歌奉納が慣例化しました。神輿が調進された明和4年2月にも奉納がおこなわれており、『紀伊国名所図会』(江戸時代後期)に神輿の寄進者として名を残す近衛家の当主も加わっていました。

和歌祭仮面群 面掛行列所用品

 〔種別〕彫刻

 紀州東照宮では、徳川家康の命日にあたる4月17日に春の祭礼である和歌祭がおこなわれています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。この「和歌祭仮面群」は渡御行列に加わる練り物の一つである「面掛」に使用された仮面(96面)です。和歌祭の「面掛」は行列に参加する仮面の多さから「百面」とも呼ばれ、和歌祭の練り物の中でも特異な存在です。
 紀州東照宮には、この「面掛」に使用される能面・狂言面・神楽面・鼻高面など96面が伝わっており、これらの面の中には仮面の裏側に「方廣作」という銘文を持つ鎌倉時代末期から南北朝時代にさかのぼる可能性のある神事面をはじめ、室町時代に製作されたと考えられる古風な様式を持った能面・狂言面、近世初頭の有力な面打である「出目満庸有閑(天下一有閑)」が製作した能面など中世~近世の仮面の展開を考える上で重要な情報を有しています。

〔写真〕尉「方廣作」(神事面)、大飛出「出目満庸有閑(天下一有閑)」、和歌祭仮面群

和歌祭祭礼所用具

〔種別〕工芸

 紀州東照宮では、徳川家康の命日(4月17日)に、春の祭礼である和歌祭が行われています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。
 和歌祭祭礼所用具は「常装束」に分類される舞楽装束類、特定の舞楽の曲目に使用される装束や楽器類、舞楽とは異なる芸能に関する道具類の3種に分類されます。このうち、袍・半臂・下襲・表袴・踏掛・鳥甲等からなる「常装束」は右方(半島系曲目・緑色系装束)、左方(大陸系曲目・赤色系装束)ともにほぼ10組ずつ確認され、和歌祭の楽人装束として使用された可能性が高いものです。「常装束」は染織や刺繍の技法的特徴が大阪市天王寺舞楽所用具と近似することから、和歌祭に舞楽が取り入れられた寛永7年(1630)頃の製作と考えられます。また、「新靺鞨」「林歌」の装束に関しては、拝領装束として紀州東照宮に伝来したものとみられます。
 これらの拝領装束は、「和歌祭祭礼御行列書」の文政8年(1825)の条に「林歌」の曲目が掲載されていること、文政期の第十代藩主徳川治宝が雅楽や舞楽を愛好したことから、文政期に制作された可能性が高いと考えられます。

〔写真〕半臂、鳥兜 、常装束部位名称図

東照宮縁起絵巻

〔種別〕絵画

 初代藩主徳川頼宣が奉納したと伝えられる、5巻ともに紙本金地著色の巻子装(各縦36.0cm、全長838.7cm)で、白地葵紋散金襴の表紙に八角の水晶製の軸端という豪華な仕立ての絵巻です。
 東照宮縁起絵巻は徳川家康の生涯の主要場面と、没後の久能山葬送と日光への改葬、寛永17年(1640)の三代将軍家光による家康二十五回忌大法要、紀州初代藩主徳川頼宣による紀州東照宮の造営と和歌祭を詞書・絵各二十八段の構成で描いたものです。二十七段までは寛永17年に家光により日光東照宮に奉納された「日光本東照宮縁起絵巻」とほぼ同様のものですが、紀州東照宮造営と和歌祭を描いた二十八段目はこの絵巻にのみ存在しています。

〔写真〕東照宮縁起絵巻 二十八段 和歌祭(東照宮~天満宮、市町~片男波御旅所、出島付近)

弓箭具

〔種別〕工芸

 徳川家康所用品として紀州徳川家に伝来していた弓矢(矢1手、弓9張、附蒔絵弓櫃1合、矢2具(228本))で、徳川頼宣および明治4年(1871)に徳川茂承により奉納されました。頼宣奉納品のうち黒漆塗の下地に藤を巻いた重藤の弓で、さらに上から上質の黒漆がかけられています。また、弓櫃・矢櫃はともに梨地雲霞文蒔絵で、両側面に鍍金錠前金具のついた豪華でありながら実用性と堅牢さをも兼ね備えています。

〔写真〕矢・蒔絵矢櫃

甲冑

〔種別〕工芸

 紀州東照宮の甲冑は徳川家康所用品を徳川頼宣が寄進したものと、家康・頼宣所用品を最後の紀州藩主徳川茂承が寄進したものなどからなります。特に、頼宣により奉納された南蛮兜はヨーロッパ製の南蛮兜を忠実に模して造られた兜で、紀州東照宮および日光東照宮伝来の重要文化財の南蛮兜とともに徳川家康秘蔵の兜のうちの一つであることが知られています。また、縹糸威胴丸具足は頼宣が初陣である大坂の陣で着用したとされるもので、茂承により明治9年(1876)に奉納されました。

〔写真〕縹糸威胴丸具足、紺糸威胴丸具足