和歌御祭礼図屏風

〔種別〕絵画

 本図は徳川家康の命日(4月17日)に行われる紀州東照宮の春祭和歌祭を描いた六曲一双の祭礼図屏風(169.5cm×373.5cm)です。本図の構図も多くの和歌祭図とおなじく、左隻上部に天満宮、右隻上部に東照宮を配し、片男波の砂嘴と入江を中央部から下部へ描き、東照宮から出発して右隻下部の御旅所に至る渡御行列と巡行路の風物を描いています。左隻三扇には天下一出羽のまねき看板をつけた人形浄瑠璃の一行がみられることから、徳川家康の50年忌である寛文5年(1665)の祭礼を描いたものと考えられます。
 頼宣により規模縮小を命じられる寛文6年(1666)以前の盛大な和歌祭を周辺の景観まで詳細に描いていることから、近世初期の風俗画としても貴重な資料の一つといえます。

〔写真〕右隻、左隻

報恩寺の梵鐘

〔種別〕工芸

 報恩寺は二代藩主徳川光貞が、養母である瑶林院(徳川頼宣正室・加藤清正娘)の追福のため菩提所であった要行寺を改めて、造営した寺院です。
 本寺の梵鐘(総高159.0cm(龍頭29.0cm・鐘身130.0cm)、口径91.0cm)は江戸時代初期の典型的な作風を示しており、乳の間に各区5段5列25個、縦帯上部に各2個の合計108個の乳をそなえ、池の間の第一区および第二区には梵鐘鋳造の由来を記した銘文が刻まれています。また、八弁蓮華文の撞座が龍頭にそって2個あり、草の間には牡丹唐草と獅子が施文されています。
 池の間に刻まれた銘文により、本梵鐘は光貞の娘台嶺院(関白一条冬経正室)の菩提を弔うために報恩寺の開山である日順上人が施主となって鋳造されたものであることがわかっています。

〔写真〕梵鐘、梵鐘各部名称

太刀 銘国時

〔種別〕工芸

 山城鍛冶の来派の流れを汲む一派である肥後国延寿派の刀工・国時の太刀(身長71.2cm、反り1.8cm)です。国時の太刀は直刃の刃文を焼くことが多いですが、本刀は直刃の乱れごころで、地肌に白気がある点に流派の特徴があらわれています。当初は縹糸巻の太刀拵が付属していた模様ですが、現在は白鞘に納められています。享保6年(1721)徳川頼宣の五十回忌にあたり、5代藩主吉宗が奉納したものです。

〔写真〕刀身

小原桃洞墓

〔種別〕史跡

 紀伊藩医で名は良貴、通称源三郎、号桃洞といいます。医学を吉益東洞に、本草学を小野蘭山に学びました。1,700余品の動植鉱物を集録した『本草余纂』が主著で、ほかに『南紀土産考』『南海介譜』『南海魚譜』などの地方動植物誌があります。これらの業績により、紀州藩の本草学の先覚者として、その功績は高く評価されています。
 小原桃洞は文政8年(1825)7月11日に和歌山で没しており、門人たちにより吹上の大恩寺に葬られました。

木綿家住宅(主屋、離れ、土蔵、門及び塀)

 昭和15年(1940)につくられた木造平屋建、 瓦葺の建物です。宅地に南面して建ち、東端に玄関を構え、玄関脇の洋風応接間はスパニッシュ瓦葺で二連アーチ窓を設けています。西半は庭に面して和室を配し縁を廻らせており、和洋両室とも意匠に優れた上質な住宅です。

〔写真〕門及び塀、主屋

旧松井家別邸(主屋、北土蔵、表門、茶室、南土蔵、給水塔、浴室棟、便所、裏門及び土塀)

 大正9年(1920)に建てられた木造平屋建、一部二階建ての瓦葺(一部銅板葺)の建物です。大正から昭和にかけて活躍した株の相場師松井伊助が建てた別邸です。2000坪の敷地内に回遊式庭園を有し、主屋の他、門、茶室など十箇所の建造物が登録有形文化財として登録されています。現在、料理店として活用されています。

〔写真〕表門、主屋

三尾家住宅(主屋、土蔵)

 国道42号線の近傍に建つ町家で、天保12年(1841)建築の木造二階建 、瓦葺建物です。一階に格子窓を配し、二階正面には虫籠窓を左右対称に備えた端正なつくりです。
 市内に残る数少ない江戸期の建築の一つで、歴史的街路景観を形成する貴重な住宅です。

〔写真〕主屋

島村家住宅(主屋、門及び塀)

 大正期、洋風建築の普及に大きな役割を果たした「あめりか屋」による住宅です。大正15年(1926)建築の木造二階建 、瓦葺建物です。北面に玄関ポーチ、南面にパーゴラ付きテラスを設けています。外観は洋風意匠を基本としますが、南面から東面にかけての一階を和風意匠とします。いくつかの窓にはステンドグラスがはめられ、建具類の狂いも少なく、上質な住宅です。

〔写真〕主屋

御前家住宅(主屋、台所棟及び土蔵)

 和歌山城周辺で戦禍を免れた数少ない戦前期の住宅です。昭和10年〜13年(1935〜1938)頃の建築で、木造平屋建、瓦葺です。外壁は屋久杉の皮で葺かれ、内部も良材を用いた数寄屋造りの意匠となっています。洋風応接間など、この時代の邸宅の特徴を備えています。

〔写真〕主屋

野呂介石の墓

〔種別〕史跡

 野呂介石は、延享4年(1747)1月20日に町医である野呂方紹の第5子として生まれます。14歳で京都に出て黄檗僧鶴亭について墨竹を習います。一旦郷里に戻るものの再び上京し、21歳の時、池大雅について文人画の技法を修得します。また、同郷の桑山玉洲や大坂の文人・木村蒹葭堂とも交流を深めています。
 寛政5年(1793)、47歳の時には紀州藩士に取り立てられ、以後、公務のかたわら熊野をはじめとする紀州各地を訪れて、豊かな自然や風景を題材に精力的な絵画制作を続けました。さらに、当時の日本の文人画家たちがあこがれた中国絵画からも多くを学びました。
 介石は文政11年(1828)3月14日に82歳で亡くなり、吹上の護念寺に葬られました。