加納諸平の墓

〔種別〕史跡

 幕末の国学者、歌人である加納諸平は、遠州白須賀の人で、国学者であり歌人でもあった夏目甕磨の長子として文化3年(1806)9月に生まれました。文政4年(1821)、父に伴われ近畿を歴遊し、和歌山城下に本居大平を訪ねた際に、大平の推挙により紀州藩奥医師加納伊竹の養嗣子となりました。天保4年(1833)に紀州藩国学所総裁を勤め、『紀伊続風土記』『紀伊名所図会』の編者でもありました。墓碑は加納家の墓所の中にあり、墓石は花崗岩製であり、正面に「加納諸平墓」、裏面に「安政四年丁巳六月二十四日」と刻銘された自然石の主石が台石の上に置かれています。

太田・黒田遺跡出土銅鐸

〔種別〕考古資料

 太田・黒田遺跡は和歌山県内屈指の弥生時代の遺跡です。この銅鐸は、昭和45年(1970)に遺跡東側の河川の改修工事に際して出土しました。高さ約30cmの弥生時代中期の外縁付鈕1式の4区袈裟襷文銅鐸で、結晶片岩製の舌が鐸身内側で発見されています。
 この銅鐸は、島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸のうちの4口と同笵であることが確認されています。弥生時代の拠点集落遺跡から出土しており、弥生時代における青銅器の流通状況を知るうえでも貴重なものです。

赤坂御庭図画帖

〔種別〕絵画

 本画帖(28.0cm×41.5cm)は紀州徳川家の江戸中屋敷である赤坂邸(現赤坂御用地)の庭園「西園」の四季折々の風景を描いた画帖です。全部で15図が収められており、外箱には「記録部類 赤坂御庭図 一六四号 南紀徳川家」というラベルがあり、紀州徳川家に伝来した作品であることがわかります。
 本画帖には「西園」の60を超える名所のうち14か所15図画が坂昇春により描かれています。また、各画面の上部には短冊形の料紙に「洗心亭残月」「長生村仲夏」「冝春観開花」というふうに建物等の雅号と季節が記されています。
 このように本画帖は赤坂邸「西園」をビジュアル的に知ることのできる数少ない貴重な資料の一つといえます。

〔写真〕洗心亭残月、青崖埒打球之図、鳳鳴閣春草、向陽亭 初春二

冬景山水図

〔種別〕絵画

 本図(40.7cm×52.4cm)は画面右の岩山から滝が流れ、湖面へと注ぎ、広々とした湖に2人の高士が佇む姿が配されています。画面左上には祇園南海自筆の五言二句の詩が添えられ、画と詩の一体化が図られています。
 紀州藩の儒官で文人画家である作者の祇園南海(1676~1751)は中国から舶載された画譜を通して、中国の文人画の画風や知識を習得し、柳沢淇園や池大雅等の後進を多く育てたことから、「日本の文人画の祖」と呼ばれています。

鉄錆地雑賀鉢兜

〔種別〕工芸

 頭の上に手拭を載せたような「置き手拭形兜」という形式の雑賀鉢兜(27.1cm×23.1cm)です。本資料は兜正面に1枚、側面に2枚の鉄板を環状に継ぎ合わせ、その上に1枚の鉄板(伏板)を置き、鉄板の継ぎ目には大型の座鋲を打ち並べています。全体的には金銀の象嵌や覆輪部が映え、頭頂部の角状の鋲や大型鋲、見上皺や切鉄(鉄片)による眉の表現、鋭く突出した眉庇の形など、勇猛な印象を与える雑賀鉢兜の優品です。

〔写真〕鉄錆地雑賀鉢兜,兜背面

男子立像埴輪(力士埴輪)

 井辺八幡山古墳から出土した力士埴輪は近畿地方を代表する大型の埴輪(総高113.5cm)です。ふんどしを締め、両足は長く、手が前方に伸びていることから、相撲の取り組み姿勢を表現しているものと思われます。なお、本資料は坊主状の頭部に鉢巻の立体表現を持つ点が特徴で、特に鉢巻の後ろ側の端部が円筒状のつくりとなっており、飾りを表現していると考えられます。また、顔面の鼻の両側には刺青の表現もみられます。

和同開珎・万年通宝

 発掘調査によって太田・黒田遺跡から出土した奈良時代の銭貨の一括資料(直径2.36~2.55cm)です。皇朝十二銭である和同開珎が42枚、万年通宝が4枚の合計46枚からなります。中に刳りぬきの井筒を納めた直径2.0m、深さ2.9mの井戸の底から出土したことから、これらの銭貨は井戸に埋納されたものであったと考えらます。
 なお、本資料は発掘調査で出土した一括資料としては和歌山県内では最多例であり、全国的にも比較的多いものです。

〔写真〕和同開珎

紀伊国名所図会板木

 文化8年(1811)から刊行された紀伊国の社寺・旧跡・名勝などの由緒や来歴を地域別に紹介した地誌「紀伊国名所図会」の板木344枚(各長50cm×幅23.0cm×厚2.5cm)です。全18巻23冊(初編・二編・三編・後編ただし熊野編を除く)からなるこのシリーズを企画、執筆、出版したのは和歌山城下の出版人、七代目帯屋伊兵衛こと高市志友でした。しかしながら、三編完成前に志友が没した後は、紀州藩御抱絵師が加わり、後編では10代藩主徳川治宝の命により加納諸平が編集に当たるなど次第に紀州藩主導の刊行事業となっていきました。「紀伊国名所図会」初編の出版は、江戸時代の名所図会出版第1期ブームと第2期ブームの間にあたり、この時期は再版物がほとんどであったため、「紀伊国名所図会」の出版は多くの人々に新鮮味と興味を呼び起こしたと思われます。

木造十一面観音立像

〔種別〕彫刻

 慈光円福院は戦災で焼失した円福院を再建する際に、無住になっていた和佐八幡宮の別当寺であった観音院慈光寺を移築し現在の寺名に改称したもので、本像もその際に移されました。
 本像(像高149.7cm)は内刳りを持たない檜の一木造の十一面観音立像です。装飾的な天冠台や翻波式衣文、目鼻立ちがはっきりと表した面貌、わずかに残る彩色からいわゆる彩色檀像であったと考えられます。肉感的でありながら瑞々しいその面貌表現は大阪府観心寺如意輪観音像等とも共通することから、平安時代前期の真言密教との関わりが伺われます。

(拝観を希望する場合は事前に慈光円福院に連絡をしてください。)

車駕之古址古墳出土遺物

〔種別〕考古資料

 車駕之古址古墳は5世紀後半頃に築かれた和歌山県内最大級の前方後円墳です。発掘調査により装身具類や埴輪が出土しています。そのなかでも金製勾玉は現在のところ、日本列島では唯一の出土例です。 この勾玉と類似する資料が朝鮮半島の新羅の皇南大塚、金冠塚、瑞鳳塚、伽耶地域の玉田古墳群M4号墳などから出土しています。そのため、車駕之古址古墳の金製勾玉は朝鮮半島よりもち込まれた可能性が指摘されています。