和歌山城追廻門

和歌山城追廻門は、城外の扇ノ芝(おうぎのしば)に馬場があり、そこで馬を追廻していたことが門の名前の由来とされています。鏡柱(かがみばしら)2本と内側の控柱2本から構成されており、2本の鏡柱上に冠木(かぶき)を渡して小さな切妻屋根(きりづまやね)を被せ、鏡柱と内側の控柱の間にも小さな切妻屋根を被せています。また、切妻の両側に破風(はふ)はなく、直接石垣に接しています。
 追廻門は昭和58~59年に行われた解体修理時の調査で、主要部材に当初材が多く残っていたことが判明しています。当初材の垂木(たるき)の形状から創建時期は寛永期よりは古くなることが指摘されおり、元和年間までさかのぼることになれば、徳川頼宣による砂の丸と南の丸の造営時期とも一致することとなります。
 和歌山城では、重要文化財である岡口門をのぞくと現存する江戸時代の建造物は追廻門と井戸屋形(いどやかた)のみであり、追廻門は江戸時代の和歌山城の景観を現在に残す貴重な文化財と言えます。

ヘンリー杉本作日系人収容所油彩画

ヘンリー杉本(杉本譲/1900~1990)が描いた日系人収容所を題材とする絵画群です。アメリカで画家として認められ始めていたヘンリーは、太平洋戦争が勃発すると日系人収容所に送られましたが、そこでの日系収容人の生活をリアルに描きました。これらの絵画はのちに戦争史の一端を示す「ドキュメンタリー絵画」としてアメリカで高く評価されているだけでなく、和歌山の移民史を紐解く資料としても価値の高いものであると考えられます。

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ヘンリー杉本「切望」Longing1944年/ヘンリー杉本「息子の負傷」My Son Hurt

駿河屋菓子木型

江戸時代を通じて紀州徳川家の御用菓子商を務めた駿河屋に伝来した菓子木型です。紀州藩の藩政を編纂した『南紀徳川史』や江戸時代後期の地誌『紀伊国(きいのくに)名所図会(めいしょずえ)』にも藩からの御用が頻繁であったとの記載がみられます。これらの菓子木型の中には裏面に墨書がみられるものがあるだけでなく、その当時に作られた(あるいは後世に編纂された)菓子の見本帳(絵(え)手本(てほん))とも照合することができ、現代まで含め167組・63点の菓子木型のうち、50組・18点は藩主の命で作られたことがわかっています。このように、大名に命じられて作られた江戸時代の菓子木型が、絵手本を伴ってこれだけの規模で一括して現存しているという事例は全国的にもあまり例がありません。

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銘「和歌の浦」の菓子木型(3組で一連)/銘「和歌の浦」の完成図(絵手本より)/銘「蟠桃」の菓子木型

紀州徳川家所用獅子鈕子母印

 紀州徳川家所用獅子鈕子母印は紀州徳川家の旧蔵資料で、昭和50年(1975)に和歌山市に寄贈されました。
 親獅子、子獅子、六面体の3つの印からなり、親獅子印には子獅子印を収納でき、子獅子印の基底部には六面体の入る空隙(すきま)があり、すべてが親獅子印のなかに収納できる構造となっています。材質はいずれも真鍮で、表面に金メッキを施しています。
 親獅子印には、「南海之鎮(なんかいのしずめ)」、 子獅子印には「寿山清玩(じゅざんせいがん)」、六面体には、「政余(せいよ)」、「敬臼所」、「賜紫金魚袋(ししきんぎょたい)」、「明義館(めいぎかん)」、「銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくだゆう)」、「楽只(がっきょう)」の印面が施されています。
 紀州徳川家の当主は、それぞれ様々な素材で多数の印を製作しており、そのなかでも本作品は親獅子、子獅子、六面体が入れ子状になっているだけでなく、材質の特性をよく生かした造形的にも非常に優れた印であったため、今日まで大切に伝えられてきたものと考えられます。また、親獅子印の「南海之鎮」は、西国支配の要としての紀州藩の立場を表現した文言といえ、類似の表現も含めて、紀州藩で代々意識されたものと考えられます。なお、親獅子の印面と十一代藩主斉順(なりゆき)の一行書「忠信」(和歌山市立博物館蔵)の「南海之鎮」の落款(らっかん)印とが合致することが確認されています。

若宮八幡神社のボダイジュ

 有本の若宮八幡神社にある菩提樹は、幹周り2.5m、高さ約10mで菩提樹としては全国屈指の大樹です。本幹は、地上すぐの部位から5本の支幹にわかれています。菩提樹は、シナノキ科中国原産の落葉高木で、高野山や比叡山などの寺院の境内などに植えられています。若宮八幡神社の境内には、かつて明王寺という別当寺があり、菩提樹は神仏習合時代の遺物ともいえるものです。

一の橋の樟樹

 和歌山城の一の橋をわたり大手門から城内に入ると、すぐ右側の石垣の上に立つクスノキの大樹が目に入ります。幹周り7m、樹高25mで、太い枝を四方にのばして直径35mにもおよぶ巨大な樹冠を形成しており、城内最大の巨木です。
 昭和20年(1945)の和歌山大空襲で、和歌山城の天守閣が消失した時に、このクスノキもはなはだしい損傷を受け、あるいは枯死するのではないかと心配されましたが、その後、見事に回復しました。

鷺ノ森遺跡

 和歌山市の中央部に位置する浄土真宗西本願寺派である鷺森別院の周囲に所在する鷺ノ森遺跡は、現地表面から約60cm下の江戸時代末期の生活面から約2.5m下の古墳時代の生活面まで6~7面の生活面が存在します。これまでの調査では、古墳時代の溝、飛鳥時代の竪穴建物や掘立柱建物、鎌倉時代の井戸、戦国時代の堀、江戸時代の建物礎石や井戸、鍛冶関連遺構など各時代の生活跡が発見され、これらに伴う膨大な量の遺物が出土しています。戦国時代の堀は約17m、深さ3mに及ぶ大規模なもので、当時の本願寺の方向と合致します。

〔写真〕戦国時代の堀、石建物跡

和歌山城 西之丸庭園(紅葉渓庭園)

〔種別〕名勝

 西の丸は、江戸時代に能舞台や茶室等が存在し、藩主が数寄や風雅を楽しむ場所として機能しました。その中でも南西部に築かれた西之丸庭園は、天守の建つ虎伏山の急峻な斜面を利用し、滝石組を中心に立石を多く据え、豪快に作庭しています。渓状地形を利用して小さい方の「上の池」を掘り、柳島を配置して内堀を大きな池に見立てた池泉回遊式の庭園です。庭園南西の高台には、離れ座敷の「聴松閣」と茶室の「水月軒」が建てられており、藩主が茶室から庭園全体を見渡しながら茶を楽しむような造りになっていたと考えられます。
 通説では紀州徳川家初代の徳川頼宣の命による作庭としますが、徳川家以前の城主であった浅野家の家老上田宗固による作庭との説もあります。
 昭和48年(1973)に庭園を整備し、昭和60年(1985)国の名勝に指定されました。毎年秋になると庭園内の紅葉が見事に色づく事から「紅葉渓庭園」とも呼ばれています。

〔写真〕内堀と鳶魚閣、内堀と御橋廊下、鎮壇具

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和歌山城 岡口門

 岡口門は史跡和歌山城内の南東部に位置します。築城期から浅野氏が大手を一の橋に変えるまでは大手門でした。現在の門は、元和7年(1621)に城を拡張した際に、整備したと考えられています。櫓門の形式で、延長40mの土塀(附指定)が北側に続き、12か所の銃眼を設けています。

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和歌山城跡

 和歌山城跡は、和歌山市和歌山城周辺に所在する近世の武家屋敷である三の丸を中心とした遺跡です。
 和歌山城の南東部を調査した折には、江戸時代末期の『和歌山城下町図』に描かれた百軒長屋の敷地東辺を区画する溝を、紀州徳川家家老水野家の屋敷地跡の調査では、礎石立建物や基礎石組、石組溝等の屋敷地に関係する遺構群を検出しています。
 和歌山地方・家庭・簡易裁判所の新庁舎建設にあたり実施された発掘調査では、屋敷地境界施設や井戸・石組枡・暗渠などの水周り施設が確認されています。また、その下層では古墳時代や鎌倉時代の遺物のほか、室町時代の土坑墓や粘土採掘穴とみられる遺構がみつかっており、和歌山城築城以前にも人間の活動痕跡が認められます。

〔写真〕水野家家紋軒瓦、水野家屋敷地、水野家屋敷地出土遺物