加太春日神社本殿

 本社の創建は明らかではありませんが、江戸時代に編さんされた『紀伊続風土記』によれば、当初は天照大神を祀っていたが、日野左衛門藤原光福がこの地方を支配した嘉元年間(1303~1317)に、藤原氏の祖神である春日三社を合祀し、それから春日神社と称するようになったとされます。現在の社殿は、慶長元年(1596)に桑山修理亮正榮によって建立されたもので、社殿は檜皮葺、一間社流造、千鳥破風と軒唐破風付きの建物です。建物の構造をはじめとして蟇股・欄間・脇障子などに豪華な彫刻が施されており、桃山時代の特徴をよく表しています。特に、蟇股の装飾に恵比寿、貝、海老など海に関わる題材がみられることは海村の神社として注目されます。また迦陵頻伽は仏典にあらわれる想像上の鳥で、上半身が人で下半身が鳥に表現されますが、蟇股の装飾に用いられるのは大変珍しいことです。

〔写真〕本殿、脇障子、迦陵頻伽(蟇股の彫刻)、海老(蟇股の彫刻)

光恩寺庫裡

 光恩寺は戦国時代の天正19年(1591)に創建された寺院で、明治8年(1875)に火災で庫裏・本堂・書院が全焼しました。明治13年(1880)に和歌山城が取り壊されつつあったため、本丸御台所の払い下げを受け庫裡とし、本丸建物を移し本堂としました。しかし、本堂は明治14年(1881)に暴風雨により倒壊し、現在庫裏のみが残っています。
 建物の大きさに比べて小さい入り口や防御に適したうち開きの扉、太い部材を使用する柱や垂木などは城郭建築の特徴を示し、屋根の軒瓦には徳川家の家紋である三葉葵紋が使用されています。庫裏内の杉製の引戸は、表面には竹林と二頭の虎が、裏面には水辺に遊ぶガチョウ(鵞鳥)が描かれており、当時の装飾の様子もうかがうことができます。和歌山城内の建物は取り壊しや戦災によってほとんど失われており、残されているのは城内の岡口門(国指定重要文化財)とこの光恩寺の庫裏のみであり、当時の様相を知る上で貴重な建物です。

〔写真〕庫裡外観、杉戸絵(ガチョウ)

大立寺の山門

 大立寺は文禄年間(安土桃山時代)の創建と伝えられています。山門は薬医門型式で高さは約5.6mです。この門は戦国時代末期の紀州在地勢力のひとつである太田党の居館であった太田城の大門を移築したものとされています。太田城は天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めの際に水攻めにあったことで著名です。その後大門のみが市内の吹屋町の天台宗功徳寺に移され、さらに第二次世界大戦後、現在の位置に移築されました。