山口廃寺跡

 山口廃寺跡は大坂街道(雄山越)と淡路街道との交点付近の紀ノ川右岸に位置します。山口廃寺の蛇紋岩製の大礎石(最大長2.42m、幅・高さ1.2m余)はすでに破壊されていますが、大塔の心柱を受けた痕跡(直径18cm、深さ21.5cm)があります。
 この他には礎石などの遺構は確認されていませんが、周辺からは中房に七個の蓮子を配し、周縁部には鋸歯文を巡らした八葉副弁蓮華文軒丸瓦をはじめとする奈良時代前期の瓦が出土しているだけでなく、「堂垣内」「門口」など寺院に関係する地名が残っていることから古代には規模の大きな寺院が建っていたものと思われます。

〔写真〕大塔跡、軒丸瓦

井辺1号墳

 岩橋千塚古墳群なかで、大日山の南斜面にあたる井辺地区に、27基の古墳が密集しています。井辺1号墳は井辺地区で最大の古墳で、6世紀末から7世紀前半頃につくられた方墳です。
 墳丘は北辺28m、南辺40m、東辺39m、西辺38mで、南に向かって広がっています。南に開口する横穴式石室は、全長10.85m、玄室幅4.5m、玄室高2.8mで、奥壁近くに石棚と石梁を設けています。
 昭和41年(1966)からの関西大学考古学研究室による発掘調査では、金環(耳環)、刀鞘責金具、輪状銅製品などの金属製品や須恵器、土師器が発見されました。

〔写真〕横穴式石室、須恵器、耳環・銅製品

高井遺跡

 高井遺跡は直川に位置し、東と西を谷にはさまれた段丘上に立地します。直川小学校内の発掘調査では、古墳時代前期と平安~鎌倉時代の集落跡が発見されました。平安~鎌倉時代では、多数の掘立柱建物があり、土師器、須恵器、黒色土器のほかに緑釉・灰釉陶器、中国製白磁が出土し、土葬墓から北宋銭15枚以上が出土しました。高井遺跡の周辺に古代の南海道が想定されており、それに関係する集落の可能性があります。

〔写真〕掘立柱建物、銭貨出土状況、銭貨

鷺ノ森遺跡

 和歌山市の中央部に位置する浄土真宗西本願寺派である鷺森別院の周囲に所在する鷺ノ森遺跡は、現地表面から約60cm下の江戸時代末期の生活面から約2.5m下の古墳時代の生活面まで6~7面の生活面が存在します。これまでの調査では、古墳時代の溝、飛鳥時代の竪穴建物や掘立柱建物、鎌倉時代の井戸、戦国時代の堀、江戸時代の建物礎石や井戸、鍛冶関連遺構など各時代の生活跡が発見され、これらに伴う膨大な量の遺物が出土しています。戦国時代の堀は約17m、深さ3mに及ぶ大規模なもので、当時の本願寺の方向と合致します。

〔写真〕戦国時代の堀、石建物跡

吉礼砂羅谷窯跡

 砂羅谷窯跡は、岩橋千塚古墳群の天王塚古墳が所在する天王塚山より、南に派生する尾根のひとつの西斜面の標高36mの地点にあります。現在確認されている須恵器の窯跡は5基で、出土した坏身・坏蓋・高坏・短頸壺・甕などの須恵器からみて、操業の中心時期は古墳時代後期から奈良時代にかけてと考えられています。また、そのうちのひとつである6世紀前半段階の窯では、焚き口に近い燃焼部とみられるところから埴輪片が出土しており、須恵器の他に埴輪も焼成していたとみられます。
 周辺には、岩橋千塚古墳群があり、古墳時代後期に須恵器や埴輪の需要拡大に伴い造営規模が拡大した須恵器窯跡と考えられ、造営開始の時期は、古墳時代中期に遡る可能性が指摘されています。

山口遺跡

 山口遺跡は、古代の寺院跡である山口廃寺の南で、近世の山口御殿跡の北西に位置します。また南方には東西方向に古代の南海道が想定され、遺跡内に熊野古道がとおる交通の要衝でもあります。県道建設にともなう平成5年(1993)からの発掘調査では、おもに古墳時代初頭、飛鳥時代、中世の集落跡が発見されました。特に飛鳥時代では、山口廃寺の造営直前の時期の掘立柱建物群が発見され、寺院の造成にともなって廃絶し、寺院の近くに移動した可能性があります。

〔写真〕平成5年(1993)調査全景、堀立柱建物

和田遺跡

 和田遺跡は、市域南部の和田川の南岸に位置し、周辺一帯に河南条里の地割りが残る水田地帯です。県道建設にともなう平成26年(2014)からの発掘調査では、和田川により形成された微高地上で、弥生~古墳時代の井戸、溝、竪穴建物、掘立柱建物、古代~中世の井戸などが発見されました。弥生時代~古墳時代では、微高地から落ち込む地点に大量の土器が廃棄された状態でみつかりました。中世の井戸では、底で土師器の皿に白石をつめた状態でみつかり、井戸の廃棄にともなう祭祀の跡と考えられています。

〔写真〕落ち込み状遺構(土器出土状況)、中世の井戸

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

鳴神Ⅱ遺跡

 鳴神Ⅱ遺跡は、岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地に接する紀ノ川南岸の沖積地に広がる東西約0.3km、南北約0.4kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代末~平安時代にかけての溝や奈良時代の井戸などが検出されています。特に、溝は弥生時代末に開削され、古墳時代中期に整備し、以後奈良時代~平安時代まで使用されたことが出土遺物から伺うことができ、今日の宮井用水同様に用水路として機能していたものと考えられます。なお、溝からは建築部材と考えられる屋根型の木製品や扉、斧柄や砧、杵、腰掛状木製品などが出土しています。

〔写真〕井戸(奈良時代)、腰掛状木製品、屋根形木製品

友田町遺跡

 紀ノ川の南岸で和歌山駅の西側に広がる遺跡です。標高2.8m前後の沖積低地に古墳時代の集落が営まれています。発掘調査により古墳時代前期の竪穴建物が1棟、古墳時代後期の掘立柱建物が5棟確認されています。掘立柱建物のなかには布堀の掘方をもつものも含まれています。また、古墳時代後期の溝からは、滑石製勾玉と剣形模造品、結晶片岩製の有孔円板など、祭祀関係遺物が出土しており注目されます。

〔写真〕掘立柱建物、滑石製品など