沖ノ島北方海底遺跡

 沖ノ島北方海底遺跡は紀淡海峡に浮かぶ地ノ島・虎島・沖ノ島・神島の4島からなる友ヶ島のうちの沖ノ島の北側の海域を指します。この海域では古くから網漁業に伴って陶磁器類が引き上げられており、韓国全羅南道新安郡智島面防築里の沖合で1975年に発見された「新安沈船」と同様の交易船が沈没しているのではないかと考えられています。
 「海揚がり」の陶磁器とも称されるこれらの陶磁器類は中国龍泉窯で焼かれた青磁碗や香炉などの室町時代の日明貿易に伴うものと、九州の唐津や伊万里の港から大坂や和歌山城下町等の大消費地に運ばれた江戸時代の交易に伴う肥前系陶磁器に分けることができます。
 このことから、室町時代の日明貿易に伴う沈没船以外に少なくとも江戸時代の沈没船が存在すると考えられています。

〔写真〕青磁碗(鎬蓮弁文)、褐釉四耳壺、青磁香炉、青磁碗(雷文帯)

木ノ本の獅子舞

〔種別〕無形民俗

 木ノ本の獅子舞は、木ノ本にある木ノ本八幡宮の祭礼に奉納されるもので、500年の伝統があると伝わります。木ノ本地区は、古くは今から1300年前に奈良の大安寺により開拓され、その後東大寺の寺領となり、八幡宮が一帯の鎮守となったとされています。青年二人が雄獅子の胴衣に入って演ずる、勇壮活発な獅子舞です。特に地上5mに渡した2本の青竹の上を舞うダンジリ上の舞いが有名です。獅子が谷底に蹴落とした我が子の這い上がってくる姿を待ちながら、谷底をのぞく様子を演出しています。

〔写真〕ダンジリ上の舞い、木ノ本地区内での舞い

木本八幡宮本殿

 旧西庄村の産土神で、社伝では応神天皇が筑紫からの帰途、南海を通った際に泊まった紀水門の頓宮の跡に建てたとされます。社蔵の古文書には中世期の田畠寄進状があり、中世からの鎮守であったことがわかります。社殿の創立については明らかではありませんが、文明4年(1472)造営の神殿が天正13年(1585)兵火で焼失し、その後、元和4年(1618)に造立したのが現在の本殿で、蟇股や脇障子彫刻に元和5年(1619)の墨書があります。本殿は三間社流造、檜皮葺の建物で南面しています。全体として桃山時代の様式を踏襲し、彫刻や木鼻などの形も良く整っています。

力侍神社本殿、摂社八王子神社本殿

 天手力男命を主神とする神社で南面して建てられています。当社の創建は明らかではありませんが、社伝によるともと八王子社と称して、八王子権現・力侍大明神を祀っていたとされます。力侍神社はもと和歌山市内の神波にあったものを上野の八王子社境内に移したが、寛永3年(1626)に両社とも現在地に移されたといわれます。
 本殿・摂社ともほぼ同じ規模の一間社流造、こけら葺で、棟札により力侍神社は寛永11年(1634)、八王子神社は寛永元年(1624)に建てられたことがわかっています。縁や棟飾りなどに後補の部分もありますが、全体として当初の姿が保たれていて、三船神社(紀の川市)や上岩出神社(岩出市)などの安土桃山時代の神社建築に続く時期の重要な作例となっています。

〔写真〕力侍神社本殿・摂社八王子神社本殿

団七踊

〔種別〕無形民俗

団七踊は、岡崎地区一円に伝わる盆踊りです。江戸時代の寛永年間(1624~1645)、奥州白石郡坂戸村で悪代官志賀団七に殺された与太郎の娘が仇討ちを遂げた事件が江戸歌舞伎となり、たまたま紀州藩主に随行して江戸に上った岡崎の郷士がこれを観劇し、謡と踊りに仕組んで、郷土芸能となったものです。さらし踊り・なぎなた踊りは、父の仇討ちを遂げるために武道にはげむ様子を演じたものであり、その後に団七踊りの仇討ちの場面となります。

旧小早川梅吉氏住宅

 もと中津村(現在 日高川町)三佐にあった茅葺の農家で、東西に細長い敷地の東端に主屋があり、その西に納屋が建っていました。主屋は、建築様式や残された最も古い位牌の年代からみて18世紀後半頃に建てられたとみられます。桁行三間半、梁間三間強の小規模な建物で、入口を入ると土間(ニワ)が広がります。左側には、板の間のオモテやナンドと呼ばれる部屋が並び土間側は建具が無く開放的になっています。ナンドには仏壇とイロリがあります。建築形式に二間取りという古い形式を残している点が重要です。現在は県立紀伊風土記の丘に移築されています。

〔写真〕外観、ニワ、イマからニワを見る、小屋組

旧谷村まつ氏住宅

 この民家はもと有田川中流の旧清水町(現在 有田川町)に建てられていました。東西に長い敷地の西端に北面して主屋が建てられ、他には納屋があっただけです。主屋の建立年代は不明ですが、言い伝えや建築手法から18世紀後期と推定されます。屋内平面は三間取りで、この地域の民家のかなり古い形を継承していることがわかります。入口は二間通しの広い土間(ニワ)となり、土間の右側は、仏壇、物入れ付の10畳間(オモテ)があり、その奥にイロリのある板の間(ダイドコ)と板の間付の三畳間(ナンド)があり、土間には3連のカマドや農家ならではの脱穀用の唐臼が据えられています。現在は県立紀伊風土記の丘に移築されています。

〔写真〕外観、ニワ、ダイドコロ

阿弥陀寺本堂

 阿弥陀寺の創建は不明ですが、中興開山とされる明誉法道は正保2年(1645)に没しています。本堂はもと吹上にあった大智寺が明治維新になり廃寺となったため、その御霊屋の譲渡を受け、明治4年(1871)に移築したものです。大智寺は、寛永9年(1632)に藩主徳川頼宣が徳川秀忠の霊を祀るために創建した寺で、代々の藩主もこの寺に祀られるようになりました。記録に「寛永九年創建、翌酉年御霊屋造事、戌年寺造事」とあり、建築年(寛永10年、1633)が判明します。
 本堂はわずかに桁行側が長い五間堂で、藩主が直接関係したため第一級の建築物に仕上げられています。漆塗あるいは彩色が内外すべてに施され、現在も鮮やかに残り、近世初期の霊廟建築の一つとして重要です。

〔写真〕本堂、本堂内部(内陣上部)、本堂内部(海老虹梁)

護国院(紀三井寺)本堂

 紀三井寺にある金剛宝寺護国院は救世観音宗で、西国観音霊場三十三所の第二番の札所の紀三井寺として有名です。寺伝によれば、宝亀元年(770)に唐の僧為光上人が日本で旅しているなかで、この地に寺を創建し、自作の十一面観音像を本尊としたとされます。現在の本堂は、棟札によれば宝暦9年(1759)に大衆の協力によって建立されたもので、桁行五間、梁間五間、正面に三間の向拝をもつ入母屋造の本瓦葺の建物です。江戸時代末期の建築ですが、総欅造で建築技術も優秀であり、紀ノ川沿いのこの時代のもとしては、粉河寺本堂とともに代表的な大建築物といえます。

岩倉流泳法

〔種別〕無形民俗

 岩倉流泳法は、紀州に江戸時代から伝わる古式泳法として、全国的に有名です。紀州徳川家は代々、水泳に熱心で臣下の諸士に奨励しました。岩倉家は江戸時代中期の流祖から代々、水芸指南役をつとめました。基本的な泳ぎ方は「立泳」、「抜手」で、水上術・跳飛術・浮身術・飛込術・水中術などの様々な技術があります。武芸の一つではありますが、水難から逃れるため、あるいは人命救助にも重きをおいています。

〔写真〕御旗奉行、水中発砲、甲冑泳