六十谷遺跡

 六十谷遺跡は、標高15.0m前後の段丘上に営まれた縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡です。遺跡内部には、北半部に推定古代南海道が東西に横断し、遺跡の南限には淡路街道(淡島街道)があります。
 六十谷遺跡では、千手川の堤防から縄文時代晩期の土器や石棒の頭部がみつかっており、遺跡の西側に鎮座する射矢止神社の周辺では、弥生時代前期から後期までの弥生土器のほか、サヌカイト製の石鏃をはじめとする石器が表採されています。
 遺跡の中央部南端で行われた発掘調査では、古墳時代前期から中期の溝やピット、平安時代から鎌倉時代の屋敷地を区画する溝などがみつかっており、平安時代の溝からは緑釉陶器の碗や中国製の白磁の碗が出土しています。紀ノ川北岸の段丘上には、推定古代南海道を通して中央との交流をもった集落が多数営まれたと考えられ、六十谷遺跡もそのうちのひとつとみられます。

〔写真〕屋敷地の区画溝

上野廃寺跡

〔種別〕史跡

 上野廃寺は南に紀の川をのぞみ、北に三十六人山を背負う紀ノ川右岸の台地に立地します。昭和42年(1967)と59年(1984)に行われた発掘調査の結果、東西両塔をもつ薬師寺式の伽藍配置の寺院であったことが解っています。
 この上野廃寺跡からは奈良時代前期を中心とした瓦が出土していますが、特筆すべきものとして、金銅製風鐸や堂塔の隅木の先端を覆う箱形の瓦製品である隅木蓋瓦が出土しています。隅木蓋瓦の飾板には扇形のパルメット文(忍冬文)に輪形を巡らしたものを主文とし、その周縁には左右対称にS字形の文様を配置しています。

〔写真〕隅木蓋瓦、西塔、軒瓦、講堂

旧聖社境内和鏡出土地

 和歌山市黒岩の街道を見下ろす丘陵状にある聖御前社の跡地から和鏡1面が採集されています。和鏡(面径109mm、胎厚1mm、縁高7mm、縁幅2mm)は下部に流水、左に水辺に遊ぶ2羽の鳥を右から上部にかけて菊花を配する鈕や界圏を無視し鏡背を一枚のキャンパスとした文様構成をしています。文様の箆押しが浅く伸びやかであること、縁幅が細く外傾していることなどから、平安時代(12世紀前半)の和鏡であると考えられます。なお、採集状況から経塚に埋納された副納品の一部など、何らかの祭祀に伴った鏡である可能性が高いものと思われます。

〔写真〕菊花双鳥鏡

西田井遺跡

 紀ノ川の河口から約10km上流の北岸に位置する、弥生時代後期から江戸時代にかけての集落遺跡です。発掘調査の結果、各時代の層から竪穴建物・掘立柱建物・溝・井戸・土坑・墓といった多様な遺構が検出され、古墳時代中期の竪穴住居では造り付け竈や貯蔵穴を持ち、須恵器や土師器のほか丸底の製塩土器や韓式土器なども出土しています。

〔写真〕全景(西から)、溝(土器出土状況)、竪穴建物、堀立柱建物

木ノ本Ⅲ遺跡

 和歌山市の北西部、東西に連なる和泉山脈のふもとに位置し、東西約1km、南北約0.4kmの規模をもつ遺跡で、遺跡内には瓦器片が広く分布することから、中世を中心とする遺跡とみられます。範囲内には県内では珍しく平地に築かれた木ノ本(釜山)古墳群が含まれ、東から釜山古墳、車駕之古址古墳、茶臼山古墳の3基が並んでいますが、これらの古墳の周濠の埋土上層からも鎌倉時代の瓦器や土師器が出土しています。遺跡西端部の調査で、平安時代~鎌倉時代の大溝が検出され、溝からは多量の瓦が出土し、周辺での寺院の存在が指摘されています。

〔写真〕鎌倉時代の大溝、石組井戸、梵字文軒丸瓦出土状況

木ノ本Ⅱ遺跡

 和歌山平野を東西に流れる紀ノ川の河口北岸、標高約4mの沖積平野に立地する東西830m、南北340mを範囲とした古墳時代から中世にかけての散布地として知られています。平成25年(2013)に実施した発掘調査で、平安時代の水路、平安時代以前の水田が確認されました。また、少量ですが、縄文時代 中~後期、晩期の遺物も出土しています。

〔写真〕溝(平安時代)、瓦器椀

磯脇遺跡

 和歌山市の北西部の砂堆上に立地し、古墳時代の製塩遺跡である西庄遺跡の西側に隣接する遺跡です。東西約120m、南北約80mの遺跡範囲をもち、平成24年(2012)の調査で、平安時代後半~鎌倉時代の井戸、土坑、ピットが検出され、土師器、黒色土器、瓦器、中国製白磁、製塩土器、鉄製釣針、大型の管状土錘、動物骨、貝殻などが出土しました。当該時期の海岸に沿う集落遺跡の様相を示しています。

〔写真〕土坑やピット、出土遺物

加太遺跡

 東西に走る和泉山脈の西端が紀淡海峡に落ち込むあたりの当地域は、漁業に従事する海部集団の中心地として、古くから知られていました。平城京跡で発見された木簡によると、「海部郡加太郷」と記され、塩を提供していたことが判明しています。堤川河口の砂丘上を中心に南北約500m、東西約550mの範囲に遺物の散布がみられます。採集資料によると、縄文時代から江戸時代まで各時代の遺物が豊富にみられ、継続的に人々の暮らしが行われていたことがわかります。遺物の中で比較的資料が多いのは古墳時代~奈良時代の土師器、須恵器、土錘、製塩土器などで、当該時期に漁労や製塩などの生業をおこなっていたものとみられます。

〔写真〕須恵器壺

鳴神Ⅴ遺跡

 鳴神Ⅴ遺跡は、和歌山市東部の花山西裾の微高地に広がる東西約0.5km、南北約0.4kmの遺跡です。古墳時代の小区画水田のほか、古墳時代初頭~後期にかけての円墳・方墳、中世の井戸などが検出されています。これらの古墳は、西側に広がる秋月遺跡で確認された古墳群とともに平野部に形成された古墳群です。鳴神Ⅴ遺跡で確認された古墳からは馬歯が出土しており注目されます。

〔写真〕水田(古墳時代)、古墳(古墳時代)、井戸(鎌倉時代)

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)