鳴神Ⅱ遺跡

 鳴神Ⅱ遺跡は、岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地に接する紀ノ川南岸の沖積地に広がる東西約0.3km、南北約0.4kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代末~平安時代にかけての溝や奈良時代の井戸などが検出されています。特に、溝は弥生時代末に開削され、古墳時代中期に整備し、以後奈良時代~平安時代まで使用されたことが出土遺物から伺うことができ、今日の宮井用水同様に用水路として機能していたものと考えられます。なお、溝からは建築部材と考えられる屋根型の木製品や扉、斧柄や砧、杵、腰掛状木製品などが出土しています。

〔写真〕井戸(奈良時代)、腰掛状木製品、屋根形木製品

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋

丹生廣良氏所蔵天野文書

〔種別〕書跡

 丹生家は丹生都比売神社の旧社家で、歴代同神社の神職家です。当家には200余点に及ぶ古文書が伝来しており、そのうち経済史、文化史上の貴重な資料である中世文書46点を10巻に表現したものが本品です。内容は平安時代から江戸時代に及ぶ多彩なもので、大半が丹生都比売神社にゆかりのあるものです。特に第一巻の丹生祝氏本系帳は丹生氏の家系と大神への奉仕の由来を述べた貴重なものです。

木造十一面観音立像

〔種別〕彫刻

 慈光円福院は戦災で焼失した円福院を再建する際に、無住になっていた和佐八幡宮の別当寺であった観音院慈光寺を移築し現在の寺名に改称したもので、本像もその際に移されました。
 本像(像高149.7cm)は内刳りを持たない檜の一木造の十一面観音立像です。装飾的な天冠台や翻波式衣文、目鼻立ちがはっきりと表した面貌、わずかに残る彩色からいわゆる彩色檀像であったと考えられます。肉感的でありながら瑞々しいその面貌表現は大阪府観心寺如意輪観音像等とも共通することから、平安時代前期の真言密教との関わりが伺われます。

(拝観を希望する場合は事前に慈光円福院に連絡をしてください。)

木造梵天帝釈二天王立像

〔種別〕彫刻

 梵天・帝釈と呼ばれる二躰の菩薩像は梵天・帝釈天の形相ではなく、ともに左手に蓮華を執り、右手を躰側に垂らす通常の菩薩像の姿をしています。
 梵天像(像高163.9cm)は彩色を施した欅の一木造、帝釈天像(像高161.2cm)は彩色を施した檜の一木造りであるなど材質が異なるだけでなく、梵天像が十一面観音立像と共通する簡潔な作風であるのに対し、帝釈天像は眉目の彫りがやや深く、衣文に膨らみがあるなど作風も大きく異なることから、後世に一対として組み合わされたものであると考えられます。
 なお、梵天像の彩色は剥落が著しいですが、帝釈天像は大型団花文の散らされた裳や天冠に彩色が良く残っており、本来の華やかな姿を偲ぶことができます。

〔写真〕梵天像、帝釈天像

木造十一面観音立像

〔種別〕彫刻

 本像(像高183.0cm)は両手・両足先・頭上面などを別材とした内刳りの無い檜の一木造の十一面観音立像です。右手首の形から本来は錫杖を手にする長谷式の観音像であったと考えられます。眉目や衣文の彫りが簡潔であるなど平安時代後期(11世紀前半)頃の地方仏全体に共通する造像傾向を端的に示す作例です。なお、この十一面観音立像は客仏ではないかと考えられています。

太刀 銘伯耆大原真守(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 刀身は、平安時代後期の伯耆国の刀工で、安綱の子といわれる真守の作です。小乱に小丁字交じりの刃文を持つ腰反りの高い小鋒の太刀(身長75.2cm、反り2.4cm)です。二字銘の「真守」や三字銘の「真守造」が多いなかで長銘を切っている点も貴重であり、大原真守を代表する名作として知られています。江戸時代に作られた付属する糸巻太刀拵は、柄巻・渡巻ともに茶色の巻糸で、鞘は梨子地蒔絵に魚々子を打った赤銅地に金の葵紋をあしらった金具が付けられています。

〔写真〕糸巻太刀拵

太刀 銘安綱(附 糸巻太刀拵)

〔種別〕工芸

 紀州藩初代藩主徳川頼宣が父である家康の五十回忌に際し、奉納した太刀です。刀身(身長80.6cm、反り2.5cm)は平安時代後期の伯耆国の刀工・安綱の作で、広直刃に小互の目を交えた美しい刃文を持ちます。江戸時代に作られた太刀拵は典型的な糸巻き太刀拵で、柄・鞘ともに巻糸は茶とし、鞘は梨子地に葵紋を散らした蒔絵です。金具はすべて魚々子を打った赤銅地に金で葵紋をあしらった華麗なものです。

〔写真〕糸巻太刀拵

朝日蔵骨器出土地

 紀ノ川の南岸、朝日の浄土寺境内の西側墓地周辺に埋納された蔵骨器です。蔵骨器には外容器が伴っており、直径0.8m、深さ0.4mの墓坑に倒置した状態で設置し、そのあと墓坑内を木炭で充墳している状況が確認されています。
 蔵骨器の時期は土器の特徴から8世紀末から9世紀初頭のものとみられます。蔵骨器は須恵器長頸壺の口縁部から頸部を打ち砕いたものを使用しており、和歌山県内でも類例をみないものであり注目されます。

〔写真〕蔵骨器

津秦Ⅱ遺跡

 紀ノ川の南岸に位置する遺跡で、標高3.2m前後の沖積低地に弥生時代から中世の遺構が形成されています。遺跡の南端で行われた調査により、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の水田やそれに伴う水路、鎌倉時代の土坑や溝からなる居住域が確認されています。

〔写真〕水路と水田(古墳時代)