鳴神貝塚

 鳴神貝塚は紀ノ川の南岸、和歌山平野の中央部にある花山西麓に位置し、貝層の範囲は東西110m、南北100mにおよび、県内最大級の規模を誇ります。明治28年(1895)に近畿地方で初めて発見された貝塚として、昭和6年(1931)に国の史跡に指定されました。その後の調査の結果、人骨の埋葬された土坑や、縄文時代早期末~前期初頭の貝層、縄文時代早期~晩期の土器を含む貝層を確認したことから、鳴神貝塚は縄文時代早期~晩期にかけて存続した縄文時代の集落遺跡の一部であると考えられます。
 鳴神貝塚からは、石鏃、削器、石斧、敲石、磨石、石皿などの石製品、シカなどの骨でつくられたヘラや根バサミ、エイの尾鰭等でつくられたヤス、ヒスイ製の小玉やサルの橈骨(前腕の骨)製の耳飾り等が出土しています。また貝層からは主体となるハマグリのほか、ヤマトシジミやマガキ、ハイガイ等の貝殻、タイ科やアジ科、エイ、サメ類等の魚骨類、シカやイノシシ、サル等の動物骨などの食物残滓(食べカス)も出土しています。
 史跡指定地内で発見された手足を伸ばした状態で埋葬された女性の人骨は、上顎の犬歯2本を抜歯し、サルの橈骨製の耳飾りをしていたことから、シャーマンであった可能性が考えられ、注目されます。

〔写真〕貝層、縄文人骨、猿の橈骨製耳飾り、骨角製品

大池遺跡

 和歌山市の東部、紀の川市・海南市と接する大池の岸部(標高約60~80m)に石器類の散布がみられ、旧石器時代~縄文時代の遺跡として知られます。採集品には、旧石器時代のナイフ形石器・角錐状石器、縄文時代の石錐、石鏃、敲石などがあり、木葉形尖頭器は縄文時代草創期前後の時期と推定されています。
 市内で最も古い時期の遺跡の一つで、地域名をつけて「山東大池遺跡」と呼ばれることもあります。

〔写真〕遠景、尖頭器・石鏃

岡崎縄文遺跡

 和歌山平野の南東部、標高100mの福飯ヶ峯を最高所とする山地の北西裾に位置します。昭和39年(1964)の市営岡崎団地造成工事中に発見され、縄文時代後期後半から晩期前半頃の縄文土器を含む貝層が確認されました。
 貝層は2層あり、下層はマガキが主体で、上層はハマグリが8割以上を占めていました。縄文土器のなかには、東北系の後期の瘤付土器の影響を受けた土器や晩期の大洞式系統の土器もみられ、注目されます。

〔写真〕遺跡遠景、縄文土器(晩期)、縄文土器(東北系)、石錘

吉礼貝塚

 岩橋山地から南にのびる支尾根の先端が、和田川の沖積地に接するあたりに位置する、縄文時代の貝塚です。現在は民家が密集しているため、規模は明らかではありません。ハイガイ、ハマグリ、カキ、キサゴ、ウミニナなどの貝類のほか、イノシシ、シカなどの獣骨も見つかっています。石器は石鏃、石錐、石錘、石匙などがあります。縄文土器は、前期前半の北白川下層Ⅰ~Ⅲ式、前期末の大歳山式、中期の鷹島式、船元Ⅰ式・Ⅲ式、里木Ⅱ式などがあり、和歌山市内では比較的古い時期の土器です。

〔写真〕貝層の一部、縄文土器

禰宜貝塚

 和歌山市の東部、紀ノ川左岸に平野部に突き出したようにそびえる標高237mの高積山があり、高積山西方の斜面裾部の標高9m前後の場所に縄文時代の貝塚が形成されています。ボーリング調査と確認調査により、貝層は幅約10m、長さ約40mの西貝塚と幅約10m、長さ約80mの東貝塚の2列に分けられることが判明しています。
 出土品に縄文土器、石器(石鏃、石錐、削器、石匙)、イノシシの牙を利用したナイフなどがあり、土器からみて縄文時代前期が主体で中期、後期も少量みられます。貝類にはハイガイ、ヤマトシジミ、ハマグリ、獣骨にはシカ、イノシシがあります。

〔写真〕貝層の様子、イノシシ牙製ナイフ、縄文前期土器、縄文土器(関東系)

六十谷遺跡

 六十谷遺跡は、標高15.0m前後の段丘上に営まれた縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡です。遺跡内部には、北半部に推定古代南海道が東西に横断し、遺跡の南限には淡路街道(淡島街道)があります。
 六十谷遺跡では、千手川の堤防から縄文時代晩期の土器や石棒の頭部がみつかっており、遺跡の西側に鎮座する射矢止神社の周辺では、弥生時代前期から後期までの弥生土器のほか、サヌカイト製の石鏃をはじめとする石器が表採されています。
 遺跡の中央部南端で行われた発掘調査では、古墳時代前期から中期の溝やピット、平安時代から鎌倉時代の屋敷地を区画する溝などがみつかっており、平安時代の溝からは緑釉陶器の碗や中国製の白磁の碗が出土しています。紀ノ川北岸の段丘上には、推定古代南海道を通して中央との交流をもった集落が多数営まれたと考えられ、六十谷遺跡もそのうちのひとつとみられます。

〔写真〕屋敷地の区画溝

大谷川遺跡

 加太の集落の北方、大谷川の河口近くに位置する河岸段丘上に形成された海浜遺跡で、縄文時代から古墳時代を中心とする各時期の遺物が発見されています。東西約180m、南北約120mの規模で標高は5~8mです。
 昭和42年(1967)に確認調査が実施され、弥生時代後期~古墳時代中期を主体とする遺物包含層が確認されました。縄文時代後期から人の営みが認められますが、古墳時代初頭頃から塩作りを営んだ漁業集落が展開したものと推定されます。
 他には、弥生時代後期末~古墳時代初頭頃とみられる銅鏃5点と所属時期不明の銅製釣針が採集されています。

〔写真〕製塩土器、土錘、銅鏃

鳴神貝塚

〔種別〕史跡

 鳴神貝塚は紀ノ川の南岸、和歌山平野の中央部にある花山西麓に位置します。明治28年(1895)に近畿地方で初めて発見された貝塚として、昭和6年(1931)に国の史跡に指定されました。貝層の範囲は東西110m、南北100mにおよび、県内最大級の規模を誇ります。その後の調査の結果、人骨の埋葬された土坑や、縄文時代早期~前期末の貝層、縄文時代早期~晩期の土器や石器を含む包含層を確認したことから、鳴神貝塚は縄文時代早期~晩期にかけて断続的に存続した縄文時代の集落遺跡の一部であると考えられます。
 特筆すべきものとして、手足を伸ばした状態で埋葬(伸展葬)された女性人骨があり、上顎の犬歯2本を抜歯し、サルの橈骨製の耳飾りをしていたことから、シャーマンであった可能性が考えられます。

〔写真〕貝層、縄文人骨、猿の橈骨製耳飾り、骨角製品

木ノ本Ⅱ遺跡

 和歌山平野を東西に流れる紀ノ川の河口北岸、標高約4mの沖積平野に立地する東西830m、南北340mを範囲とした古墳時代から中世にかけての散布地として知られています。平成25年(2013)に実施した発掘調査で、平安時代の水路、平安時代以前の水田が確認されました。また、少量ですが、縄文時代 中~後期、晩期の遺物も出土しています。

〔写真〕溝(平安時代)、瓦器椀

加太遺跡

 東西に走る和泉山脈の西端が紀淡海峡に落ち込むあたりの当地域は、漁業に従事する海部集団の中心地として、古くから知られていました。平城京跡で発見された木簡によると、「海部郡加太郷」と記され、塩を提供していたことが判明しています。堤川河口の砂丘上を中心に南北約500m、東西約550mの範囲に遺物の散布がみられます。採集資料によると、縄文時代から江戸時代まで各時代の遺物が豊富にみられ、継続的に人々の暮らしが行われていたことがわかります。遺物の中で比較的資料が多いのは古墳時代~奈良時代の土師器、須恵器、土錘、製塩土器などで、当該時期に漁労や製塩などの生業をおこなっていたものとみられます。

〔写真〕須恵器壺