井辺遺跡

 紀ノ川の南岸の井辺・神前・津秦にまたがる遺跡です。標高3m前後の沖積低地に縄文時代晩期から弥生時代前期と弥生時代後期から古墳時代前期の集落が営まれています。特に古墳時代初頭から前期には、福飯ヶ峯の北西部にあたる丘陵の裾部を中心に、前方後方形周溝墓を含む墓域と多数の竪穴住居からなる居住域が確認されています。
 また、同じ時期にかなり広範囲にわたって水路が堀削されて、それに伴う水田や畑も確認されており、遺跡内が古墳時代に入ってから大規模に開発されている状況が判明しつつあります。

〔写真〕前方後方形周溝墓(古墳時代)、水田(古墳時代)、畠(古墳時代)、土器棺(縄文時代)

川辺遺跡

 紀ノ川の北岸の川辺・里・中筋日延にまたがる遺跡で、標高11.5m前後の沖積低地に縄文時代後期から中世までの集落が営まれています。縄文時代から中世にかけて竪穴住居や墓、井戸、道路などさまざまな遺構が確認されています。縄文時代晩期には竪穴建物・土器棺墓が確認され、出土遺物には東北地方の大洞式土器や遮光器土偶など特徴的なものがあります。そのほか、飛鳥時代の多数の竪穴建物や堀立柱建物も検出されており、日本書紀に記述されている川辺屯倉との関連をうかがわせる成果として注目されます。

〔写真〕遺跡遠景(現イズミヤ付近)、竪穴建物、土器棺(縄文時代)、縄文土器鉢

猊口石

〔種別〕史跡

 秋葉山の北西裾部にある緑色片岩の岩山で、その形が獅子(猊)が口を張った姿を思わせることから猊口石と名付けられました。江戸時代から名所として取り扱われており、岩の西壁には紀州藩の儒学者として著名な李梅渓の筆により「猊口石」の刻銘があります。この猊口石からは、縄文時代晩期の土器片とハマグリやハイガイなどの貝殻が出土しており、そうした状況から猊口石は秋葉山麓裾部の旧海岸に営まれた岩陰遺跡であると考えられます。

〔写真〕遠景(西から望む)、刻まれた銘部分「猊口石」