木ノ本Ⅲ遺跡

 和歌山市の北西部、東西に連なる和泉山脈のふもとに位置し、東西約1km、南北約0.4kmの規模をもつ遺跡で、遺跡内には瓦器片が広く分布することから、中世を中心とする遺跡とみられます。範囲内には県内では珍しく平地に築かれた木ノ本(釜山)古墳群が含まれ、東から釜山古墳、車駕之古址古墳、茶臼山古墳の3基が並んでいますが、これらの古墳の周濠の埋土上層からも鎌倉時代の瓦器や土師器が出土しています。遺跡西端部の調査で、平安時代~鎌倉時代の大溝が検出され、溝からは多量の瓦が出土し、周辺での寺院の存在が指摘されています。

〔写真〕鎌倉時代の大溝、石組井戸、梵字文軒丸瓦出土状況

木ノ本Ⅱ遺跡

 和歌山平野を東西に流れる紀ノ川の河口北岸、標高約4mの沖積平野に立地する東西830m、南北340mを範囲とした古墳時代から中世にかけての散布地として知られています。平成25年(2013)に実施した発掘調査で、平安時代の水路、平安時代以前の水田が確認されました。また、少量ですが、縄文時代 中~後期、晩期の遺物も出土しています。

〔写真〕溝(平安時代)、瓦器椀

磯脇遺跡

 和歌山市の北西部の砂堆上に立地し、古墳時代の製塩遺跡である西庄遺跡の西側に隣接する遺跡です。東西約120m、南北約80mの遺跡範囲をもち、平成24年(2012)の調査で、平安時代後半~鎌倉時代の井戸、土坑、ピットが検出され、土師器、黒色土器、瓦器、中国製白磁、製塩土器、鉄製釣針、大型の管状土錘、動物骨、貝殻などが出土しました。当該時期の海岸に沿う集落遺跡の様相を示しています。

〔写真〕土坑やピット、出土遺物

加太遺跡

 東西に走る和泉山脈の西端が紀淡海峡に落ち込むあたりの当地域は、漁業に従事する海部集団の中心地として、古くから知られていました。平城京跡で発見された木簡によると、「海部郡加太郷」と記され、塩を提供していたことが判明しています。堤川河口の砂丘上を中心に南北約500m、東西約550mの範囲に遺物の散布がみられます。採集資料によると、縄文時代から江戸時代まで各時代の遺物が豊富にみられ、継続的に人々の暮らしが行われていたことがわかります。遺物の中で比較的資料が多いのは古墳時代~奈良時代の土師器、須恵器、土錘、製塩土器などで、当該時期に漁労や製塩などの生業をおこなっていたものとみられます。

〔写真〕須恵器壺

和歌山城跡

 和歌山城跡は、和歌山市和歌山城周辺に所在する近世の武家屋敷である三の丸を中心とした遺跡です。
 和歌山城の南東部を調査した折には、江戸時代末期の『和歌山城下町図』に描かれた百軒長屋の敷地東辺を区画する溝を、紀州徳川家家老水野家の屋敷地跡の調査では、礎石立建物や基礎石組、石組溝等の屋敷地に関係する遺構群を検出しています。
 和歌山地方・家庭・簡易裁判所の新庁舎建設にあたり実施された発掘調査では、屋敷地境界施設や井戸・石組枡・暗渠などの水周り施設が確認されています。また、その下層では古墳時代や鎌倉時代の遺物のほか、室町時代の土坑墓や粘土採掘穴とみられる遺構がみつかっており、和歌山城築城以前にも人間の活動痕跡が認められます。

〔写真〕水野家家紋軒瓦、水野家屋敷地、水野家屋敷地出土遺物

鳴神Ⅴ遺跡

 鳴神Ⅴ遺跡は、和歌山市東部の花山西裾の微高地に広がる東西約0.5km、南北約0.4kmの遺跡です。古墳時代の小区画水田のほか、古墳時代初頭~後期にかけての円墳・方墳、中世の井戸などが検出されています。これらの古墳は、西側に広がる秋月遺跡で確認された古墳群とともに平野部に形成された古墳群です。鳴神Ⅴ遺跡で確認された古墳からは馬歯が出土しており注目されます。

〔写真〕水田(古墳時代)、古墳(古墳時代)、井戸(鎌倉時代)

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

神前遺跡

 神前遺跡は、紀ノ川南岸の福飯ヶ峯の西側に広がる沖積低地に立地する、東西約0.5km、南北約0.7kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代前期末~中期初頭にかけての水田やそれに伴う水路、古墳時代前期の竪穴建物や土坑など居住域に関係する遺構群や水田に伴う水路、室町時代~江戸時代にかけての大溝や土坑など屋敷跡の一部が確認されています。特に、2010年度に行われた調査では、溝から青銅製の鈴(古墳時代)が出土し注目されました。

〔写真〕水路(弥生~古墳時代)、青銅製鈴(古墳時代)

宇田森遺跡

 紀ノ川の北岸の標高9~10mの沖積低地に展開する東西約400m、南北約600mの遺跡です。これまでの調査成果や遺物の散布状態から、JR阪和線紀伊駅から南へ約1kmの地点にある式内社大屋都姫神社付近が遺跡の中心と考えられています。
 昭和41年(1966)~43年(1968)に行われた調査では竪穴住居、溝、土坑などが検出され、弥生時代中期を中心とする集落跡であったことが確認されています。特に、A溝と呼ばれた長さ34m以上の溝やピット12と呼ばれた隅丸方形の土坑からは弥生時代中期の土器がまとまって出土し、紀伊における弥生土器研究の基準資料となりました。

〔写真〕竪穴住居、弥生時代の溝(A溝)、弥生土器出土の様子(A溝)

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋